はじめての調香 · 8
評価ノートに何を書くべきか — 「いい香り」がデータにならない理由
· 10 分
同じ匂いでも、貼られたラベルを変えるだけで好き嫌いの評定は反転します。つまり「いい香り」が記録しているのはその日のあなたであって、原料ではありません。2つの研究と5,824種類の原料の香気語分析から、どんな記述なら安定するのか、何語書けば原料が特定できるのか、そして半年後でも読めるノートの形を説明します。
半年後に自分の評価ノートを開いて、この一行を見つけます。
3/12 パチュリ わりといい、少し甘い、好き
この一行は何の役にも立ちません。何%の希釈で嗅いだのか。何分後の話なのか。何と比べたのか。今朝届いたロットは同じものなのか。どれにも答えられません。残っているのは、3月12日のあなたの気分だけです。
書く量を増やしても解決しません。書いた対象そのものが、最初から安定していないのです。
「いい香り」がデータにならない理由
2001年、Herz と von Clef は Perception 誌で非常に単純な実験を行いました。匂いの出所がそれほど固定されておらず、快・不快どちらの解釈もできる5つの匂いを選びます。スミレの葉、パチュリ、パインオイル、メントール、そしてイソ吉草酸と酪酸の1:1混合物です。
被験者は1週間の間隔をあけて2回嗅ぎました。同じ匂いに回ごとに異なる言語ラベル(一方は肯定的、一方は否定的)を与え、いくつかの快・不快の尺度で評定させます。
結果、ラベルは匂いの知覚に有意な影響を与えました。著者らは、ラベルによって知覚が反転した事例こそが嗅覚錯覚の最初の実証であると主張しています。
刺激は一切変わっていません。同じ瓶、同じ濃度、同じ人物です。変わったのは横に書かれた言葉だけ。それだけで好悪の評定が裏返りました。
つまりノートに「いい香り」と書くとき、記録しているのは原料の性質ではなく、その日のあなたの解釈です。半年後には解釈のほうが動いているので、その一行は無効になります。
ここから実務的な規則がひとつ出ます。評価するときはラベルを隠すこと。 何を嗅いでいるか知っているとき、嗅いでいるものの一部は「そうであるはずだ」という予想です。
どんな記述なら安定するのか
では何が動かないのか。
1982年に Dravnieks が Science 誌で答えを出しています。10種類の化合物を約150名の被験者が、146語の固定リストから選んで記述しました。反復して得られた側面像は高い相関を示し(P < .001)、異なる匂いどうしの相関より一貫して高く、以前に得られていた側面像とも一致しました。
結論はこうです。多数の被験者の反応を合成した側面像は、安定した構成概念である。
安定性は2つのものから来ています。固定された語彙、それから反復です。150名の被験者はいませんが、この2つのうち1.5個までなら再現できます。
- 固定語彙:そのまま真似できます。この記事から一つだけ持ち帰るなら、これです。
- 反復:150名は集められなくても、日を変えて同じ原料を嗅ぎ直し、自分の記述がぶれないかを確かめることはできます。
自由記述の散文にはこれができません。「少し甘くてわりといい」と3か月後の「温かく、丸い」は同じ知覚なのか。答えられません。2回の記述が別の座標系を使っているからです。固定語彙とは、座標系を釘で留めるための道具です。
当社データにおける香気語
香気の記述と供給情報の両方を持つ5,824種類の原料について、記述を個別の語に分解しました。
まず、自分たちで裏を取った数字をひとつ。 この5,824件の香気欄に、
good、nice、pleasant、unpleasant、beautiful、deliciousといった評価語は何回出てくるか。0回です。 一度もありません。これが語の分割方法による見かけ上の結果ではないことを確かめるため、未処理の生の文字列でもう一度検索しました。やはり0でした。
業界の記述語彙には、「いい香り」という欄が存在しません。それもそのはずで、専門語彙が記録するのは匂いそのものの性質であり、評価者の反応を書き込む場所は最初から用意されていないのです。
5,824件が使っている香気語は全部で557種類。そのうち1回しか現れない語はわずか41語(7%)で、上位50語で全出現回数の62%を占めます。収束した、事実上の統制語彙です。Dravnieks がやっていたことと同じです。
何語書けば原料が特定できるか
香気語を1つ書いたとき、5,824件はどこまで絞れるのでしょうか。
香気語を3つ以上持つ4,438件を対象に、その原料自身のいちばん一般的な語から順に使って照会しました。最も不利な条件です。
| 書き留めた香気語の数 | 該当が残る件数(中央値) |
|---|---|
| 1語 | 1,333件 |
| 2語 | 223件 |
| 3語 | 23件 |
| 4語 | 4件 |
1語ではほとんど絞れません。green はデータベースの23.1%、sweet は22.9%、fruity は22.6%を占めます。しかし3語で5,824件が23件に、4語で4件になります。
だからノートには3〜5語が要る、という話になります。形容詞ひとつでは足りない。理由は単純で、3語目からようやく情報が届きはじめるからです。
ただし香気語だけでは足りません
逆向きの発見もひとつあったので、検証の過程ごと書いておきます。
最初の集計では「26.5%の原料が、香気語の完全な組み合わせを他の原料と共有している」という結果が出ました。使う前に確認したところ、最大の群は27件が同一の組を共有していて、その組はたった1語、floral でした。
つまり26.5%は、記述が薄いことによる見かけの数字である可能性が高い。原料が本当に区別できないとまでは言えません。記述量で層別すると次のとおりです。
| 香気語の数 | 完全な組を他と共有する割合 |
|---|---|
| 1語以上(n=5,824) | 26.5% |
| 2語以上(n=5,201) | 19.0% |
| 3語以上(n=4,438) | 13.4% |
| 4語以上(n=3,685) | 11.4% |
| 5語以上(n=2,904) | 11.1% |
確かに一部は見かけでした。26.5%が11%まで落ちます。ただし4語目以降は横ばいです(11.4% → 11.1%)。残る11%は記述量を増やしても消えません。香気語という道具そのものの上限です。
そしてこの「香気語が完全に一致する」群のうち、強度または持続性で区別できるのは29%だけ。強度と持続性の記録自体が全原料の約3分の1にしかないため、29%は下限で、実測値と呼べる数字でもありません。
だから「何の匂いがしたか」の記録だけでは足りません。「自分が何をしたか」まで一緒に記録する必要があります。
半年後でも読めるノート
3つの知見——ラベルは知覚を歪める、安定するのは固定語彙だけ、香気語は条件とセットでなければ完結しない——を合わせると、有用な記録には少なくとも次の欄が必要です。
何をしたか:
- 日付
- 原料名・供給業者・ロット番号(同じ名前でもロットが違えば別物です。いちばん抜けやすく、あとでいちばん欲しくなる欄でもあります)
- 濃度と溶剤(例:DPG中10%)
- 担体と量(ムエットは浸さず、軽くつけるだけ)
何を嗅いだか:
- 時点:0分 / 15分 / 1時間 / 4時間 / 24時間
- 各時点で3〜5語、ただし自分の固定リストの中からのみ
- 強度 1〜5
そのときの条件(Herz が示したとおり、文脈は知覚を変えます):
- 直前に嗅いだもの
- その回の何本目か
- ラベルを隠していたかどうか
最後に、用途を一行:
- ✗「とてもいい香り、好き」
- ○「清潔なウッディの土台。シトラスの終わりを支えられる」
この最後の欄が「いい香り」をデータに変える方法です。好きかどうかの代わりに、何に使えるかを書く。好みは半年で変わりますが、用途は変わりません。
自分の固定リストをつくる
30〜50語から始めれば十分で、自分が実際に扱うファミリーを覆えば足ります。規則は2つだけです。
- リストにある語だけを使う。当てはまる語がないとき、その「見つからない」こと自体が情報です。記録しておいて、その場で新語をつくらないこと。
- 語の追加は慎重に、追加したら遡って直す。1語増やすたびに座標系が変わります。古い記録を揃え直さないままだと、新旧のデータは比較できなくなります。
硬く聞こえるかもしれませんが、Dravnieks の146語がやっていたのはまさにこれです。自由記述の柔らかさは書くときには長所で、比較しようとした瞬間に壁になります。
よくある3つの誤り
-
特別だと感じたときだけ書く。外れ値だけのノートができあがります。私も最初のノートがそうでした。感動した原料と失敗した原料しか載っておらず、基準線になるはずの「まあ普通」がどこにもない。
-
書きすぎる。100語の段落は、半年後には「わりといい」と同じくらい使えません。どの語が効いていたのか分からないからです。固定語3〜5語と用途1行のほうがずっと使えます。
-
第一印象しか記録しない。前回の嗅覚疲労の記事でも触れましたが、もう一度。0分の記録だけでは「持つのか」に答えられません。少なくとも1時間後と24時間後の2点を残してください。処方の中でその原料がどこに座るかを決めるのは、そちらの情報です。
記録の目的は、今日のあなたと半年後のあなたを比較できるようにしておくことです。それには双方が理解できる座標系が要ります。固定リストがその座標系であり、「いい香り」がそこに入らない理由もここにあります。
参考文献
A. Dravnieks, Odor quality: semantically generated multidimensional profiles are stable, Science, 218(4574), 799–801 (1982). PMID 7134974
R. S. Herz & J. von Clef, The influence of verbal labeling on the perception of odors: evidence for olfactory illusions?, Perception, 30(3), 381–391 (2001). PMID 11374206
次回はロットの話です。同じ名前・同じ供給業者の天然原料がなぜ毎回違うのか、天然と合成の違いは実際のところ何なのか、そして書きはじめたばかりのその記録にとってそれが何を意味するのか。