はじめての調香 · 7
途中から何も嗅ぎ分けられなくなる — 嗅覚疲労の仕組みと、一度に評価できる本数
· 7 分
嗅覚の順応は刺激特異的です。嗅ぎ続けたその匂いには鈍くなりますが、別の匂いには鈍くなりません。そして交差順応は化学構造ではなく「似て感じられるかどうか」に従います。2つの研究と、3,790種類の原料の香気語重複分析から、評価の順番の組み方と、鼻孔を替えても無意味な理由を説明します。
連続して評価をしたことがある人なら必ず経験しています。最初の5本ははっきり分かる。8本目あたりから曖昧になる。12本目では、手に持っているムエットに本当に何かついているのかどうかも怪しくなる。
これは疲労とも原料の強さとも関係のない現象です。正体は嗅覚順応(olfactory adaptation)。順応にはかなり具体的な規則があって、それを知れば後半を無駄にしない順番が組めます。
順応は刺激特異的です
2000年の Dalton による Chemical Senses 誌の総説は明快です。ある匂い物質への反復的あるいは長時間の暴露は、その物質に対する嗅覚感度の低下をもたらし、暴露が止まれば感度は時間とともに回復します。
ここから3点。
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特異的である。順応が影響するのは主に、いま嗅いでいたその匂いです。「鼻が壊れた」という判断はたいてい間違いで、まったく違う匂いならまだ分かります。
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程度と持続時間は濃度と暴露時間で決まる。濃く長く嗅ぐほど深く落ち、回復も遅くなります。実務規則がここから直接出てきます。評価は希釈液で。希釈の回では「本当の姿を嗅ぐため」と書きましたが、理由がもう一つ増えました。原液はその日の後半の判断力を奪います。
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鼻孔を替えても意味がない。これは知らない人が多い点です。Dalton によれば、片方の鼻孔だけを刺激しても両側に順応が生じます。刺激された側のほうが深く落ちて回復も遅いのですが、反対側も確かに落ちています。順応には末梢(受容体レベル)と中枢(神経系レベル)の両方の要素があるということです。
だから、鈍ったほうを休ませて反対側で続ける、という手は使えません。いったん止めて、回復を待ちます。
交差順応は構造ではなく「似ているか」に従う
1992年、Cain と Polak は設計の美しい実験を行いました。化学構造はまったく違うのに、匂いはほぼ同一(どちらもビターチョコレート様)の2分子を選んだのです。trimethyl pyrazine(TMP)と 2-propionyl-3-methyl furan(PMF)です。
被験者は順応濃度を2分間継続して呼吸し、短い合間にテスト濃度の強度を評定しました。結果はこうでした。
- 順応刺激を知覚強度で揃えると、両者の自己順応効果は同等になり、相互の交差順応も対称的でした。
- より重要なのは第2実験です。TMP と PMF は互いに強く交差順応した一方、他の3つの匂い物質(anethole、ethyl butyrate、2,3-pentanedione)への効果は明らかに弱いものでした。
交差順応が反映しているのは知覚上の類似性であって、化学構造の類似性ではありません。 構造がまるで違っても匂いが同じ分子どうしは、互いを打ち消し合います。
評価の順番にとっての意味も明快です。疲労の速さを決めるのは、似たものを何本続けて嗅いだか。合計の本数はその次です。
当社データにおける類似度
交差順応が類似性に従うなら、同じ香調ファミリーの原料が実際どれくらい似ているのかは知る価値があります。
香気データと供給情報の両方を持つ3,790種類(香気語が3つ以上のもの)を対象に、香気語集合どうしの重複度(Jaccard)を総当たりで計算しました。
方法上の前提がひとつ。計算では主香調分類の語そのものを意図的に除外しています。同じファミリーの原料がその語を共有するのは当然で、含めてしまうと同一ファミリーの類似度が定義上かさ上げされ、結論が無意味になるためです。
また、原料1件あたりの香気語は中央値で5個しかないため、重複度の絶対値はもともと低く出ます。意味があるのは両者の比であって、数字そのものではありません。
| 平均重複度 | 香気語を1つも共有しない組の割合 | |
|---|---|---|
| 同一ファミリー内 | 0.090 | 45% |
| ファミリー間 | 0.036 | 70% |
同一ファミリー内の類似度はファミリー間の2.5倍で、ファミリーをまたぐ組の7割は香気語を1つも共有していません。
「シトラスを10本連続で評価する」が最悪の組み方である理由がこれです。互いの重複が高く、交差順応し合うので、5本目にはもう推測になっています。
実務での組み方
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ファミリーを交互に。同種を連続させない。シトラス5本を比べたいなら続けて嗅がないこと。シトラス → ウッディ → シトラス → バルサム → シトラス。間に挟まる別ファミリーは重複が低いぶん、交差順応も小さくなります。
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1回あたり8〜12本に抑える。この数字を直接支持する単一の研究はありません。「順応は暴露量に依存する」から導いた運用値です。本当にやるべきなのは自分の数字を較正すること。毎回の最後に1本目をもう一度嗅いで、明らかに弱くなっていたらその回の後半は信用せず、次は本数を減らします。私は消耗が早いほうで、十本を超えるとあて推量が混ざり始めるので、たいてい早めに切り上げます。
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1本目を基準にして、最後にもう一度嗅ぐ。2の実行方法がこれで、同時に正直な品質管理にもなります。その回のデータが使えるのか、やり直しなのかが分かります。
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疲れたらその場を離れる。Dalton が述べているのは「さらなる暴露がない状態で」回復が起きるということです。香料の匂いが充満した部屋で休んでも回復にはなりません。屋外か、せめて無臭の場所へ。
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希釈・少量・短時間。濃度も暴露時間も順応を深めます。ムエットは浸さず軽くつけるだけにして、吸うのも短く数回で。
よくある2つの誤解
「コーヒー豆を嗅げば鼻がリセットされる」 広く行われていますが、刺激特異性と矛盾します。コーヒーもまた強い匂いの一つで、起きるのはコーヒーへの順応だけ。直前の原料への順応はそのまま残ります。回復したければ、嗅ぐのをやめることです。
「今日は鼻の調子が悪い」 たいていは、ある系統の匂いに順応しているだけです。まったく違うファミリーを試してみてください。それが分かるなら鼻は正常で、順番の組み方に問題があっただけです。
参考文献
P. Dalton, Psychophysical and behavioral characteristics of olfactory adaptation, Chemical Senses, 25(4), 487–492 (2000). doi:10.1093/chemse/25.4.487
W. S. Cain & E. H. Polak, Olfactory adaptation as an aspect of odor similarity, Chemical Senses, 17(5), 481–491 (1992). doi:10.1093/chemse/17.5.481
次回は記録について。評価ノートに何を書くべきか、なぜ「いい香り」はデータにならないのか、そして半年後でも読める記録がどんな形をしているのかを扱います。