はじめての調香 · 13
鼻は人それぞれ、では「いい香り」は成立するのか — ブラインドテストの設計と、一人の評価が信頼できる範囲
· 11 分
2人の嗅覚受容体は3割以上が機能的に異なります。それでも9つの非西欧文化・235名の研究では、分子そのものが好悪の分散の41%を説明し、文化はわずか6%でした。残りはそのどちらでもありません。合意がどこまで存在するのか、ブラインドテストをどう設計するか、そして一人の評価で答えられる問いと答えられない問いを分けます。
前回はこう締めくくりました。あなたは平均的な鼻のために調香しているわけではない、と。
すると当然の問いが出ます。誰もが違うものを嗅いでいるなら、「いい香り」に合意はあるのか。誰かが気に入ったと言うとき、それは情報なのか社交辞令なのか。そして自宅で一人きりで行った評価は、どこまで信じてよいのか。
3つとも答えがあります。しかも「主観だから」よりずっと精密な答えです。
ハードウェアの差はどれくらいか
まず差の大きさから。
2014年、Mainland らは Nature Neuroscience 誌で、異種発現系を用いて嗅覚受容体の遺伝的多型が受容体機能を変えるかどうかを直接測定しました。
ヒトはおよそ400個の完全な嗅覚受容体を持つが、各個人は固有の遺伝的変異の組を持ち、それが嗅覚知覚の差につながる。(中略)18個の嗅覚受容体についてアゴニストを同定し、検討した受容体の 63% が in vitro の機能を変える多型を持つことを見いだした。平均して、2人の個人は嗅覚受容体アレルの30%以上で機能的に異なる。
3割以上。「感度が少し高い人がいる」というのは程度の話ですが、ここで起きているのは別のことです。あなたと隣の人では、センサーの3分の1に別の部品が付いている。そういう規模の差です。
前回のOR5AN1のムスク研究は、この現象の具体例のひとつでした。
それでも好悪には合意がある
ハードウェアがこれほど違うなら、好みは混沌としているはず。ところが、測ってみるとそこまで混沌としてはいませんでした。
2022年、Arshamian らは Current Biology 誌で、実行のきわめて難しい研究をやってのけました。9つの多様な非西欧文化から235名の被験者(狩猟採集民や園耕民を含む)を集め、10種類の単分子の匂い物質を快さで順位づけしてもらったのです。
結果はこうです。
顕著な世界的一貫性が観察され、分子の同一性が個人の快さの順位づけの分散の41%を説明したのに対し、文化はわずか6%しか説明しなかった。 これらの順位づけは、標本外の分子の物理化学的性質からも、また別の工業化された西欧都市生活者の集団による標本外の快さ評定からも予測可能であり、ヒトの嗅覚知覚が普遍的原理によって強く制約されていることを示す。
2つの数字は立ち止まる価値があります。
分子41%。「いい香り」の一部は分子そのものに書き込まれています。ある種の分子は、どの文化でも上位に置かれる。
文化はわずか6%。多くの人の予想よりずっと低い数字です。「文化が違えば好きな匂いはまったく違う」という通念は、おおむね誤りということになります。
2つを重ねたところに答えがある
ここで簡単な算術をします。分子41%、文化6%、合わせて47%。
では残りの53%は何か。分子と文化の外側にある何かです。
この一歩は上記2つの数字から私たちが導いた算術であり、論文が直接報告している数値ではありません。 しかもこの残差には真の個人差だけでなく、測定誤差やモデルが捉えていない要因も含まれます。個人差の推定値ではなく、その上限と読んでください。
それでも実務を導くには十分です。匂いの快さの評定において、最大の単一の分散源は、匂いそのものでも評定者の文化でもなく、評定者その人である。
ここから、逆を向く2つの結論が出ます。
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合意は存在する。分子が41%を説明する以上、あらゆる否定的評価を「好みの問題」で片づけるわけにはいきません。10人中8人が同じ箇所を指すなら、たいていその箇所が本当におかしい。
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一人の意見は標本数1で、しかも最大の分散成分から引いた1である。自分が気に入った、友人が気に入った、という情報の量は非常に低い。
評価記録の回では「いい香り」がデータにならない理由をラベルによる知覚の反転で説明しました。これが2つめの理由であり、こちらは定量的です。
当社データで最も意見が割れそうな原料
どの原料が、2人に正反対の判断をさせやすいのか。香気語から代理指標が作れます。
香気語を2つに分けます。好ましい側(floral、sweet、fruity、fresh、rose、honey、vanilla、creamy、powdery……)ときつい側(fecal、animal、sulfurous、sweaty、rancid、burnt、phenolic、medicinal、musty、metallic、pungent……)。そして両方を併せ持つ原料を数えます。
答えは 22.3%(1,579件中352件)。
この数字は2回修正しました。どちらもこの連載が過去に踏んだ罠です。
1回目:そのまま数えると18.5%でしたが、両方を持つ原料は香気語の中央値が7語、それ以外は4語でした。詳しく書かれているほど両方に触れやすいのは当然です。そこで香気語がちょうど5〜7語の原料に限定し、分母を1,579としました。
2回目:限定後、
sulfurous(硫黄)系統の比率が47.1%と目を引きました。しかしsulfurous自体が私たちの「きつい側」の一覧に入っており、この系統の原料は当然その語を持ちます。定義による水増しであり、嗅覚疲労の回で香気語の重複を計算したときと同じ問題です。主香調分類の語そのものを除外すると硫黄系統は25.0%に下がり、全体が上記の22.3%になります。
系統別では次のとおりです。
| 香調系統 | 両面性の比率 |
|---|---|
| スパイシー spicy | 31.0% |
| グリーン green | 28.1% |
| 硫黄 sulfurous | 25.0% |
| ハーバル herbal | 22.1% |
| フルーティ fruity | 21.3% |
| ウッディ woody | 20.2% |
| フローラル floral | 14.3% |
| バルサム balsamic | 12.5% |
| シトラス citrus | 6.6% |
シトラスの両面性は6.6%にすぎず、スパイシーはその5倍あります。
実務上の読み方は単純です。シトラスは最も合意の得られる系統、スパイシーとグリーンは最も割れる系統。処方の核をスパイシーやグリーンに置くなら、評価が割れる前提で計画してください。割れたからといって処方が失敗したことにはなりません。ただ、そこで増やすべきは嗅ぐ人数です。自分で嗅ぎ直しても答えは増えません。
成立しなかった推論。 両面性の原料はより低い推奨評価濃度を持つだろうと予想しました。どちら側が支配するかを濃度が決めるからです。しかし両群とも推奨濃度の中央値は10%でした(両面性 n=290、その他 n=467)。差はなく、この仮説は成立しません。
ブラインドテストの設計
実際に回せる手順にしておきます。道具は家にあるもので足り、要るのは規律だけです。
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ラベルを隠す。評価記録の回で引用した Herz と von Clef が示したとおり、同じ匂いでもラベルが変われば快さの評定は反転します。自分でテストするときも隠すこと。番号はランダムな数字にしてください。A/B/Cだと並び自体が「旧版・新版」を示唆してしまいます。私も初期にここでやらかしました。並べ方に癖が出て、嗅ぐ前からどれが本命か当てられてしまったのです。
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5〜8人集める。本稿でいちばん大事な規則で、理由は上記の53%です。統計的有意性は要りません。見たいのは意見の割れが存在するかどうか、それだけ。5人中4人が同じ問題を指すのと、1人が気に入らないと言うのとでは、情報の階級が違います。
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順序をランダム化し、系統を交互にする。嗅覚疲労の回で書いたとおり、人を疲れさせるのは、似たものを続けて嗅いだ本数で、総本数ではありません。人ごとに順序を変えれば、順序効果が特定の1本に系統的に積み上がりません。
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記述は固定語彙で尋ねる。好き嫌いはここでは聞きません。評価記録の回で引用した Dravnieks の研究がまさにこの方法でした。146語の固定リスト、約150名の被験者、反復した側面像は高く相関。規模がはるかに小さくても、方法はそのまま真似できます。
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好みについては1問だけ。「もう一度嗅ぎたいですか?」 1〜10点の採点よりずっと有効です。点数は期待と礼儀に汚染されます。「もう一度」は行動の傾向で、より正直です。
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意見が割れた箇所を記録する。そこにこそ情報があります。2人が同じ試料に正反対の評価をしたら、まず香気語を確認してください。スパイシーやグリーンの原料なら、上の31%をそのまま見ている可能性があります。
一人の評価はいつ信頼できるのか
たぶん本稿で最も実用的な部分です。答えは問いの種類ごとに分かれます。
一人でも確実に測れること:
| 問い | 成立する理由 |
|---|---|
| これは何か(香気語) | 分子が41%を説明し、固定語彙なら反復可能 |
| 変わったか(新ロット対旧ロット) | 同一人物が並べて比較する。自分自身が対照群になる(ロット差の回) |
| どれだけ持つか(手首ではなくムエットで) | 客観的な時点。ただし自身の順応を避けるためムエットで |
| 処方のどこに穴があるか(曲線の切れ目) | 好悪ではなく構造の問題 |
一人では測れないこと:
| 問い | 理由 |
|---|---|
| いい香りか | 最大の分散源があなた自身 |
| 他人が気に入るか | 同上。しかも受容体の3割が彼らと違う |
| 強度の絶対値 | あなたの閾値は他人の閾値ではない(OR5AN1の研究) |
| このムスクは十分目立つか | ムスクは特異的嗅覚脱失が最も多い範疇のひとつ |
一文にまとめれば、一人は「何であるか」を測れるが、「良いかどうか」は測れない。
自宅での評価はちゃんと仕事をしています。扱っているのが同定と構造で、処方作業の大半はそこだからです。ただ、問いが「これは世に出せるか」に変わった瞬間、他人の鼻が要ります。それも複数。
合意は存在します。ただしそれは集団に宿る性質です。分子が41%を占め、そこがあなたの設計できる部分。残る最大の割合は嗅ぐ人ひとりひとりの中にあって、そこは標本抽出しかできません。この2つを分けて考えられるようになると、処方を直すべきときと、人を集めるべきときの区別がつきます。
参考文献
J. D. Mainland ほか, The missense of smell: functional variability in the human odorant receptor repertoire, Nature Neuroscience, 17(1), 114–120 (2014). PMID 24316890
A. Arshamian ほか, The perception of odor pleasantness is shared across cultures, Current Biology, 32(9), 2061–2066.e3 (2022). PMID 35381183
次回は原価について。処方の原料コストの計算方法、最も高価な原料がたいてい問題ではない理由、そして少量購入の現実的な壁を扱います。