はじめての調香 · 12
保留剤は香りを「つかまえて」いない — ムスクが持つ理由と、持っているのが処方ではない理由
· 10 分
揮発は気液平衡と活量係数が決めるのであって、分子が分子をつかむわけではありません。当社データではムスクが最も持続する系統です(53%が目盛りの上端、残りの中央値336時間に対し全体は53時間)。つまり助言の前半は正しい。しかし8時間後に嗅いでいるのはムスクであって、あなたの処方ではありません。さらに530人の研究は、受容体ひとつの遺伝的変異があなたのムスクの強さを他人の鼻の中で変えることを示しています。
「ムスクかベンゾインを少し入れれば持つ」という助言は、2つの効果を混ぜています。ムスク自体は長く残っても、その頃には元の配合にあった揮発の早い成分は去っています。保留で扱うのは揮発曲線全体であり、トップノートを停止させる操作ではありません。
揮発は平衡の問題であって、つかまえる問題ではない
「保留剤」という言葉は接着剤を連想させます。ある分子が他の分子をつかんで逃がさない、という像です。直感には合いますが、実際の機構と噛み合いません。
2021年、Rodrigues、Nogueira、Faria は Molecules 誌で、ポルト大学分離反応工学研究室における20年の方法論を総説しました。彼らの蒸発・一次元拡散モデルは2つの土台の上にあります。気液平衡とフィックの拡散法則です。そして気相組成を予測する要点は、彼らの言葉で「基団寄与法(UNIFAC、UNIFAC-D、ASOG、A-UNIFAC、COSMO-SAC)による活量係数の算出」であり、修正ラウールの法則が液相組成と気相分圧を結びます。
各成分がある瞬間にどれだけ速く蒸発するかは、その成分自身の蒸気圧、混合物中のモル分率、そして他の成分との相互作用(活量係数)で決まります。式のどこを探しても「つかまえる」に当たる項は見つからず、全体を動かしているのは平衡です。
この総説には保留に直結する結論がさらに2つあります。
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何を嗅いでいるかを決めるのは「臭気値」。彼らの調香三元図(Perfumery Ternary Diagram)は臭気値(odour value)で描かれ、隣り合う2成分の臭気値が等しくなる境界を「調香二元線」として引き、各組成の支配的な匂いを判定します。嗅覚閾値の回の結論がここで形式化されています。支配権を握るのは、分圧を閾値で割った値が最大の成分です。配合量の多さそのものは順位を決めません。
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基質が支配の時系列を変える。基質効果が放出に大きく影響すること、例えばベースノートはジプロピレングリコール中で高い保留能を示すこと、そして基質が違えば時間とともに変わる支配的な匂いが実質的に変わることを報告しています。前回の溶剤の回が別方向から同じ地点に到達しています。
保留剤が実際にしていることは2つ。希釈(他の成分のモル分率を下げる)と、活量係数の変更です。どちらも実在する効果ですが穏やかで、初心者が期待するあの持続性には遠く届きません。
では、なぜムスクを入れると本当に持つように感じるのか。
ムスクは実際に最も持続する系統である
まずデータです。供給情報があり、主香調分類があり、持続性の記録がある原料を系統別に整理します。
| 香調系統 | 持続性の値あり | うち400時間 | 残りの中央値 |
|---|---|---|---|
| ムスク musk | 36 | 53% | 336時間 |
| アニマル animal | 23 | 52% | 168時間 |
| スパイシー spicy | 84 | 13% | 116時間 |
| ウッディ woody | 120 | 39% | 112時間 |
| バルサム balsamic | 94 | 45% | 100時間 |
| フローラル floral | 316 | 12% | 68時間 |
| シトラス citrus | 109 | 4% | 28時間 |
| ミント minty | 38 | 0% | 20時間 |
(400時間を除いた全体の中央値は53時間、n=1,295。)
この表の読み方。 400時間はこの欄で最も多く現れる単一の値であり、測定結果ではなく慣行上の目盛りの上端です。揮発曲線の回で確認済みです。そこで400時間に位置する割合とそれ以外の中央値を分けて示しました。前者自体が情報であり(「試験の時間尺度では有意に蒸発しない」を意味する)、比較可能な測定値は後者だけです。
中央値の列だけを見ると、ムスク・アニマル・ウッディ・バルサムを過小評価します。これらは値の39〜53%が上端にあって除外されているからです。2列は必ず併せて読んでください。
記録率も明示します。 持続性が記録されているのは各系統の一部だけです。ムスクは65件中36件(55%)、ウッディは354件中120件(34%)、スパイシーに至っては375件中84件(22%)です。n=36のムスクは方向性の証拠であって、精密な推定値ではありません。
すべての留保を織り込んでも方向は明白です。ムスクは最も持続する系統であり、その差は大きい。 336時間に対し全体は53時間です。
したがって助言の前半(ムスクそのものが持続する)は正しい。
しかし「持続する」ことと「処方が保たれる」ことは別
問題は後半です。
8時間後にまだ何かが嗅げるとして、その何かとは何か。
上の論理に従えば、任意の時点で支配する匂いは臭気値が最大の成分です。ベルガモットはとうに去り、ジャスミンもほぼ去り、残っているのはムスクだけ。その時点で鼻に届いているのはムスクそのものです。組み立てた処方は、すでに舞台を降りています。
これは置換による持続です。8時間後まで生き残ったのは最後に去る一成分で、作品そのものはとうの昔に終わっています。
さらにもう一段、嗅覚疲労の回で扱った罠が重なります。順応は刺激特異的です。自分の香水を8時間つけていれば、それに順応するので薄くなったと結論しますが、隣にいる人にはまだはっきり感じられているかもしれません。「私の香水は持たない」の正体が嗅覚疲労だった、ということがあります。持続性の判断は他人に尋ねるか、ムエットで行ってください。私はムエットの端に付けた時刻を書き込み、間を置いて嗅ぎ直すことにしています。手首よりずっと正直です。
ムスクベースは一人の鼻だけで決めない
OR5AN1の遺伝差は一部大環状ムスクの知覚強度を変えます。定着試験の判断には関係しますが、ムスク嗅盲そのものは別の課題です。「合成ムスクは一つの家族ではない」で扱います。
算出したが使えなかった関係
否定的な結果をひとつ記録します。
魅力的なパターンに気づきました。匂いの強さが low の原料は持続性の中央値が322時間、medium は88時間。「弱いものほど持続する」と読め、話としてもよくできています。
しかしこれはほぼ完全に、400時間という上端値の産物です。low 群では43%が400時間にあり、none 群では71%です(この群の多くはDPGやIPMのような溶剤)。
400時間を除くと、こうなります。
| 匂いの強さ | n | 持続性の中央値 |
|---|---|---|
| low | 30 | 150時間 |
| medium | 1,014 | 48時間 |
| high | 224 | 72時間 |
パターンはただちに崩れます。high が medium より持続していて単調どころではなく、low は30件しか残りません。
したがって「弱いほど持続する」は成立せず、採用しませんでした。
では保留はどう考えるべきか
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無臭の保留剤は存在しない。表がすでに答えています。持続する原料はムスク、アニマル、ウッディ、バルサム、スパイシーに集中し、どれも強い性格の持ち主です。保留剤を選ぶことは匂いを選ぶことです。無臭かつ不揮発なのはDPGのような溶剤だけで、溶剤の仕事は希釈です(前回)。
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何を残したいのかを先に決める。8時間後は最も持続する成分のものになる以上、設計は逆からです。最後に残したい匂いを決め、そこから原料を選ぶ。ムスクはその答えになってから入れれば十分です。
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曲線のどの区間にも何かを置く。揮発曲線の回で述べたとおり揮発は連続した曲線で、3段階に切れる継ぎ目はどこにもありません。保留の実務は曲線に穴を作らないことに尽きます。ミドルがベースと香気語をいくつか共有していれば、受け渡しは途切れません。
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低揮発性の原料は早めに入れ、一緒に熟成させる。理由は揮発曲線の回と同じです。
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検証はムエットと他人の鼻で。順応のせいで、自分の処方の持続性は系統的に低く見積もることになります。手首はいちばん当てにならない計器です。
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24時間後の点を記録に書く。評価記録の回の書式にある、あの欄の出番です。24時間後に書き留めた3〜5語こそ、その処方が実際に残したものです。作ろうとしたものと無関係なら、保留の狙いがずれています。それを教えてくれるのは記録だけです。
保留は延長ではなく、最後に舞台へ残るのが誰かを決めることです。 ムスクを入れれば確かに「何か」は長く残りますが、その何かはムスクです。何を持たせたいのかを先に決めてください。どうすれば持つのかは、その後の問題です。
参考文献
A. E. Rodrigues, I. Nogueira & R. P. V. Faria, Perfume and flavor engineering: a chemical engineering perspective, Molecules, 26(11), 3095 (2021). PMID 34067262
N. Sato-Akuhara ほか, Genetic variation in the human olfactory receptor OR5AN1 associates with the perception of musks, Chemical Senses, 48, bjac037 (2023). PMID 36625229
次回は個人差について。受容体が人それぞれ違うのなら「いい香り」に合意はあるのか、ブラインドテストはどう設計すべきか、そして一人で行った評価はいつ信頼できるのかを扱います。