はじめての調香 · 3
0.1% が 30% を覆い隠す理由:閾値が処方の主導権を決める
· 7 分
同じ一滴でも、処方の中で消える香料と、一本全体を支配する香料があります。差は使用量ではなく閾値です。データベース内の推奨評価濃度を持つ802件の原料から、閾値が処方構造をどう決めるかを説明します。
初学者の処方でよく起きる失敗があります。比率どおりに調合したのに、出来上がりはひとつの香りしかしない。しかもそれは、処方の中で最も量の少ない原料の香りだった。
犯人は嗅覚閾値(odour threshold)です。初学者が最も遅く理解し、最も早く罰を受ける概念です。
閾値とは
嗅覚閾値とは、その分子が空気中でどこまで薄くなっても人が感知できるか、という値です。
重要なのは差の桁です。原料ごとの閾値は数桁単位で開いています。数 ppm ないと感じられないものもあれば、ppb(十億分率)の領域ではっきり感じられるものもあります。
処方中の重量比と、「誰が主張しているか」の比は別物です。この記事の残りは、ほぼその帰結の話です。
データベースが示していること
私たちが整理した原料データのうち、802件に推奨評価濃度が付いています。濃度別に分けるとこうなります。
| 推奨される評価濃度 | 件数 |
|---|---|
| 10% 以下 | 527 |
| 1% 以下 | 204 |
| 0.1% 以下 | 45 |
「嗅ぐ」という行為だけでも、最も強い一群と穏やかな一群では 100倍 の開きがあります。しかもこれは評価用の濃度の話で、処方中の使用量はまた別です。
その45件の顔ぶれを見てみましょう。いくつか挙げると:
2,3-dimethyl pyrazine(ナッティ)2-acetyl pyrazine(ポップコーン様)2-acetyl thiazole(これもポップコーン系)2,4-nonadienal(グリーン)(E)-4-decenal(シトラス)(R)-muscone(ムスク。後でまた登場します)
ピラジン類とアルデヒド類が大半を占めます。文献の記述とも一致していて、化学クラス別に見るとアルデヒド類の閾値は総じて最も低く、アルカン類は最も高い。その差は数桁に及びます。
処方への実際的な意味
一、比率は存在感ではない。0.1% レベルの原料が入っていれば、全体の 0.5% しか占めていなくても、最初に感じる香りはそれかもしれません。バランスを直したいときは、30% を占める原料より先に、そちらを動かすほうが効きます。
二、まず母液を作る。閾値の低い素材を処方に直接秤取してはいけません。0.1% レベルでは 0.01g の誤差が致命的です。1% や 0.1% の母液にしてから秤って、はじめて誤差が制御下に入ります。私も昔、面倒がって原液のまま秤り、練習用の一本をひとつの香りだけにしてしまったことがあります。前回の希釈の話の続きでもあって、希釈は嗅ぐためだけでなく、正確に秤るためのものでもあります。
三、感じ取れない=効いていない、ではない。ムスクが典型です。muscone を単体では感じ取れないと思っていても、抜くと一本全体の持続と丸みが半分に落ちます。閾値の低い素材は、意識に上らないまま全体を変えています。
閾値を「強さ」と混同しない
よくある誤解をひとつ。閾値が低い ≠ 香りが刺激的。
閾値が測っているのは「どこまで薄くても感じられるか」で、嗅いだときの刺し方はまた別の性質です。閾値の低い素材でも、適切な濃度では極めて穏やかなものがあります。ムスクがまさにそう。逆に、原液でむせる素材の閾値が特別低いとは限りません。単に原液で嗅いでいるだけ、ということもあります。
処方中の役割を判断するには、閾値と使うつもりの濃度をセットで見ます。どちらか一方の数字だけでは足りません。
残香時間は独立した別の軸
閾値は「誰が聞こえるか」を、残香時間は「誰が最後まで残るか」を決めます。この二つは互いに独立です。
残香時間の数値がある原料の分布は次のとおりです。
| 件数 | |
|---|---|
| トップ(12時間未満) | 421 |
| ミドル(12〜72時間) | 595 |
| ラスト(72時間超) | 1,011 |
最長は 3-heptyl dihydro-5-methyl-2(3H)-furanone の 901時間、およそ37日です。
これはムエット上での残存時間で、肌の上での感じ方とは別の話です。ただ、ひとつのことは明確に示しています。トップ・ミドル・ラストは実のところ一つの競走で、すべての分子が同時に走り出し、揮発の速さだけが違う。軽いものが先に走り終え、重いものはまだ走っている。
閾値比は支配を予測できる — ただし万能ではない
ここまで、処方の中で誰が発言するかを決めるのは濃度を閾値で割った値だと述べてきました。この比には食品香気研究における正式な名前があり、匂い活性値(odour activity value、OAV)と呼ばれます。どれほど信頼できるかは、直接検証されています。
2001年、Grosch は Chemical Senses 誌で、合成した匂い物質の配合(香気モデル)から実際の食品香気を再構成する研究を総説しました。対象は2種のワイン、産地の異なる3種のオリーブ油、フライドポテト、煮た牛肉、コーヒー。分析データに基づいて原香気に一致するモデルを作り、そこから成分を1つずつ除去して香気が変わるかを見ます。
結果は2つに分かれ、どちらも重要です。前半は上の主張を支持します。
結果は、匂い活性値(OAV、濃度と匂い閾値の比)が高い匂い物質が、しばしば香気にとって必須であることを示している。
後半は知っておくべき但し書きです。
しかしながら例外もある。高いOAVを持つ匂い物質が香気の中で抑制され、より低いOAVの化合物が重要な寄与者となる場合である。
論文はこれらの例外を、混合物中の匂い物質どうしの知覚的相互作用という文脈で論じています。
実務ではこう使います。閾値比はあなたの最初の仮説であって、答えではありません。どの原料を疑うべきかまでは教えてくれます。ある原料が実際に寄与しているかを確かめる方法は1つしかありません。取り除いて、もう一度嗅ぐ。この除去試験は自分の3本組の処方でも実行できますし、私は処方を直す前に必ず一度やります。
調べ方
各原料のページに強度と残香時間の欄があります。検索では残香時間で絞り込めるので、たとえば72時間以上だけを表示すれば、それがそのままラストノートの候補群です。
より厳密な閾値の数値が必要なら、標準的な参考書は次のとおりです。
参考文献
W. Grosch, Evaluation of the key odorants of foods by dilution experiments, aroma models and omission, Chemical Senses, 26(5), 533–545 (2001). PMID 11418500
L. J. van Gemert, Odour Thresholds: Compilations of Odour Threshold Values in Air, Water and Other Media, 2nd edition, Oliemans Punter, 2011, 486ページ, ISBN 978-90-810894-0-1.
約17,000件の閾値を収録し、2,930件近い文献を引用しています。この分野で最も網羅的な編纂であり、厳密な処方設計や、サプライヤーとの仕様の議論に持ち出せる資料です。
次回は処方の構造について。10本の原料が手元に揃ったあと、最初の処方をどう組むか。そして「3種類」のほうが「10種類」より学べる理由を扱います。