はじめての調香 · 29
「環境にやさしくてホルモンを乱さないムスクが欲しい」——調べたあとの答えは、思ったより歯切れが悪い
· 15 分
Galaxolideは好きだが、環境にやさしく内分泌を乱さない代替品が欲しい、とフォーラムに書いた人がいた。この2つの理由はどちらも調べられて、調べても「これに替えなさい」にはならない。データベースでサプライヤー10社以上のムスクの記録は36件あり、うち23件(64%)はGHS欄が存在しない。欄のある13件のうち8件が水生有害性を持ち、その8件はすべて多環またはニトロムスクになる。2023年の世界的レビューも同じところで止まる。大環状ムスクと脂環式ムスクは、存在量もPBT特性もデータが限られている。独立した2つの情報源が、同じ場所で同じ理由から沈黙している。
r/DIYfragranceに、はっきりした要望が投稿されていた。ムスクをあと2〜3本買いたい、として、試したものを並べている。
「Galaxolide:好き。ただ環境にやさしくてホルモンを乱さない代替品を探している。買い直さない。」
「エチレンブラシレート:油っぽくて物足りなかった。好きではないし買い直さない」
「Habanolide:熱い金属的なランドリー感が面白い。7/10。買い直す」
この2つの理由はどちらも思いつきではなく、どちらも調べられる。
そして調べても「これに替えなさい」にはならない。
先に結論
- データベースはほとんどのムスクについて沈黙している。 サプライヤー10社以上のムスクの記録は36件あり、うち23件(64%)はGHS欄が存在しない。
- GHS欄のある13件のうち、8件が水生有害性を持つ。そしてその8件はすべて多環またはニトロムスクで、うち5件はGalaxolideの希釈規格違いになる。
- 「記載がない」は「問題がない」ではない。 あの23件の空欄は、試験して問題なしとされたのではなく、埋められていないものが大半だ。
- 2023年の世界的レビューも同じところで止まる。 そこにはこう書かれている。大環状ムスクと脂環式ムスクについては、存在量もPBT特性も現在得られるデータが限られている。
- 同じレビューは直感に反する数字も出している。HHCB、AHTN、ムスクキシレン、ムスクケトンのリスク商は、多くの水域と底質で0.1を下回り、低リスクにあたる。下水処理場の近くなど一部地点でのみRQ>1になる。
- 「ホルモンを乱す」の根拠となった研究は、標語よりずっと複雑になる。 2002年の研究はHHCBとAHTNが選択的エストロゲン受容体モジュレーターとしてはたらき、方向が細胞株と受容体サブタイプで変わること、弱いエストロゲン作用は10 μMという高濃度でのみ現れることを示した。著者自身の結論は、体外系でこうした作用を解釈するときは慎重であるべきだというものになる。
- つまり正直な答えはこうなる。替え先は、より良いと示されているのではなく、研究が少ない。
読了9分ほど。
データベースはムスクに何を記載しているか
まずデータの形から。香調にmuskを含み、サプライヤー10社以上の記録は36件ある。
| 件数 | |
|---|---|
| 全部 | 36 |
| GHS欄が存在しない | 23(64%) |
| GHS欄がある | 13 |
| うち水生有害性を持つ | 8 |
その8件はこうなる。
| サプライヤー | 名称 | 水生 |
|---|---|---|
| 38社 | musk indanone | H411 有毒 |
| 34社 | musk gx 100%(Galaxolide/HHCB) | H400/H410 非常に有毒 |
| 32社 | musk tetralin | H400/H410 |
| 30社 | musk gx 50% in IPM | H400/H410 |
| 27社 | musk gx 50% in DEP | H400/H410 |
| 22社 | musk gx 50% in BB | H400/H410 |
| 20社 | musk xylol | H410 |
| 14社 | musk gx 50% in DPG | H400/H410 |
8件のうち5件がGalaxolideの希釈規格違いになる。 そして8件すべてが多環またはニトロの側にいる。
あの人の直感は外れていない。 Galaxolideはムスク群のなかでいちばん重い水生表示を背負っている。
大事なのはもう一方の欄になる。 GHS欄はあるが水生表示のない5件はこうだ。
| サプライヤー | 名称 | GHS |
|---|---|---|
| 52社 | エチレンブラシレート | H315 皮膚刺激 |
| 52社 | ω-ペンタデカラクトン | H302 飲み込むと有害 |
| 43社 | イソアンブレットライド | H315、H319 |
大環状の側についているのは刺激であって、水生ではない。
これを証明と読んではいけない。 あの23件の空欄には大環状ムスクが多く含まれていて、空欄の意味は「ここにデータがない」であって「試験して問題なし」ではない。
2023年のレビューも同じところで止まる
Wangらは2023年に Environmental Pollution で、合成ムスクの世界的な分布と生態リスクをレビューしている。
浮かび上がる像は3層になる。
第1層、検出されるのはどれか。
Galaxolide(HHCB)、Tonalide(AHTN)、ムスクキシレン(MX)、ムスクケトン(MK)が各種試料で最も高頻度に検出される合成ムスクであり、HHCBとAHTNが優勢である。
HHCBとAHTNの濃度は、アジア諸国より西側諸国で高い傾向にあり、それは消費量を反映している。
第2層、リスクはどれくらいか。 ここは多くの人が思うより穏やかになる。
HHCB、AHTN、MX、MKのリスク商(RQ)は多くの水域と底質で0.1を下回り、水生種および底生種への低リスクを反映する。下水処理場の近くなど一部の地点では高リスク(RQ>1)が示される。
「最も高頻度に検出される」と「リスクが最も高い」は別の話になる。 検出されるのは量が多く、分析法が成熟しているからだ。
第3層、そしてこの記事の要点になる。
現時点で、大環状ムスクおよび脂環式ムスクについては、存在量とPBT特性のいずれについても得られるデータが限られている。
この一文と、データベースの23件の空欄は同じ事実になる。
まったく独立した2つの情報源——商業用の原料データベースと2023年の環境レビュー——が、同じ場所で、同じ理由から沈黙している。誰も測っていないからだ。
だから「大環状ムスクに替えるほうが環境にやさしい」は、現時点では示された主張ではなく、筋は通るが検証されていない推測になる。 構造上の根拠はある(大環状エステルは多環芳香族より分解されやすいはずだ)。そして根拠はデータではない。
ホルモンの研究が実際に測ったこと
ネット上でいちばん広まり、いちばん圧縮されている主張がこれになる。元の研究はずっと複雑だ。
Schreursらは2002年に Toxicology and Applied Pharmacology で、体外レポーター遺伝子アッセイを使ってAHTNとHHCBのエストロゲン受容体への作用を調べた。
分かったことは:
- 両者は選択的エストロゲン受容体モジュレーター(SERM)としてはたらき、エストロゲン作用と抗エストロゲン作用の両方を誘導する。方向は細胞株と対象とするERサブタイプに依存する。
- 弱いエストロゲン作用は、比較的高い濃度(10 μM)でのみ観察された。
- 抗エストロゲン作用は複数の細胞株で0.1 μMから現れた。
- よく知られたSERMである4-ヒドロキシタモキシフェンと比べると、AHTNとHHCBはエストラジオール誘導性の転写活性化を抑える効力がはるかに低い。
そして著者自身の結論はこうなる。
ER転写活性化の細胞型依存性は、体外系を用いてエストロゲン作用性化合物の影響を解釈する際に慎重であるべきことを示している。
この4つが同時に成り立っている。 相互作用は本物で、方向は系によって変わり、効力は参照化合物よりはるかに低く、著者本人が過剰な読みを戒めている。
「ホルモンを乱す」という表現は、この4つを1語に潰している。 香料安全性研究の読み方を書いたが、これは同じ型になる。体外での受容体活性はシグナルであって、用量ではない。
何もないと言っているのではない。 あの論文は2002年のもので、その後20年以上の研究が続いている。言いたいのはこうだ。この理由で素材を替えるなら、替え先には「同じことをしない」と言える研究群が存在しない。まだその研究がないからになる。
処方群:候補それぞれが実際どれだけ使われているか
954件の公開処方では:
| 素材 | 件数 | 使用量の中央値 |
|---|---|---|
| ムスクケトン(ニトロ) | 84(8.8%) | 4.00% |
| エチレンブラシレート(大環状) | 59(6.2%) | 8.33% |
| Habanolide(大環状) | 35(3.7%) | 5.00% |
| Ambrettolide(大環状) | 30(3.1%) | 1.45% |
| Helvetolide(脂環式) | 15(1.6%) | 2.78% |
| Exaltolide(大環状) | 13(1.4%) | 3.00% |
| Galaxolide(多環) | 7(0.7%) | 9.00% |
目に留めたい点が2つある。
1つ目。ムスクケトンが84件で、Galaxolideの12倍にあたる。 これは現在の市場ではなく、この処方群の年代になる。74%が特許と公開された出どころから来ていて、そこではニトロムスクがまだ一般的だった。 処方群の抽出バイアスについては書いたが、ここがいちばん目に見える形になる。この表を現況として読むことはできない。
2つ目。あの人が退けた1本が、大環状のなかで最も使われている1本になる。
エチレンブラシレートへの評価は「油っぽくて物足りない」だった。この処方群では、大環状ムスクのなかで最も多く登場する(59件)、使用量の中央値8.33%の素材になる。
「物足りない」は使用量の問題かもしれない。 残香は100%で208時間でムスクとしては短く、中央値8.33%という数字は、処方者がこれを量として扱っていることを示唆する。1〜2%で嗅いだのなら、処方のなかでのこの素材を嗅いでいないことになる。
(はっきりさせておくと、こちらは嗅いでいない。数字から導いた可能性の説明であって、診断ではない。)
では実際にどうするか
ここまでを実行できる形にまとめる。
1. 理由が水生環境なら、多環とニトロを避けることはデータに支えられている。 8件の水生表示はすべてその側にあり、Wangのレビューで最も検出された4本もすべてその側にいる。この一歩には地面がある。
2. ただし替え先を「安全」ではなく「未検証」と呼ぶ。 それが正直な位置で、しかも使い方が変わる。未検証のものを、替えたからといって多く入れる理由はない。
3. 理由が内分泌なら、その理由では選べない。 比較できる研究が替え先の側にない。データのある側から、ない側へ移動しているだけになる。
4. 実際に変わるのは処方であって環境ではない。 大環状と多環は、香りでも使用量でも1対1ではない。
| Galaxolide(多環) | エチレンブラシレート(大環状) | |
|---|---|---|
| 残香 | 100%で400時間 | 100%で208時間 |
| 処方群での中央値 | 9.00% | 8.33% |
| サプライヤー | 34社 | 52社 |
残香がほぼ半分になる。 替えたあとはドライダウンが短くなり、そこを別の素材で埋めることになる。それがこの変更の実際のコストで、環境とは関係がない。
5. あの人はすでに1つ正しいことをしている。試した素材を全部、評価つきで並べた。 あのリストは誰の推薦よりも役に立つ。自分の鼻が生んだデータだからになる。評価ノートの取り方は書いた。
この記事が示していないこと
ここに挙げたムスクを1つも嗅いでいないし、比較もしていない。 全体はデータベースの欄、処方群、2本の論文の突き合わせになる。
「GHS欄の空白は誰も埋めていないという意味だ」は推測になる。 データベースは欄が空である理由を説明しておらず、あの23件には別の理由もありうる。確かなのは1つだけだ。空白は安全の結論ではない。
8件の水生表示が多環とニトロの側に集まっているのは、このデータベースの分布であって、完全な規制上のリストではない。どこかで大環状ムスクに水生分類がついていても、ここからは見えない。
Wangの論文はレビューであって一次測定ではない。 0.1未満のリスク商は既存研究の集約で、RQ自体が採用する影響濃度と曝露推定に依存する。前提が変われば商も変わる。
「大環状のほうが分解されやすい」については直接の比較研究を見つけられなかった。 構造上は筋の通る推論で、Wangのレビューはこの領域のデータが限られていると明記している。推測として書いているのは、それが推測だからになる。
Schreursは2002年の体外研究になる。 その後20年以上の文献があり、読んだのはこの1本だけなので、この記事が示すのはその結果の内容と限界であって、分野の現況のまとめではない。
10 μMは高い濃度になる。 それを「香水をつけてどれだけ曝露するか」に換算することはできない。曝露モデルが必要で、あの論文にはない。
処方群の年代バイアスはここで深刻になる。 ムスクケトン84件対Galaxolide 7件は、市場ではなく文献の年代を反映している。あの表は相対的な使用量を見るためのもので、いま何が主流かは示さない。
残香の2つの数字(400時間対208時間)はデータベースの2件の記録から取っている。 どちらも100%と書かれているが、同一の実験・同一の方法である保証はない。
参考文献
T. Wang, H. Zou, D. Li, J. Gao, Q. Bu, Z. Wang, Global distribution and ecological risk assessment of synthetic musks in the environment, Environmental Pollution, 331(Pt 2), 121893 (2023). PMID 37245793. doi:10.1016/j.envpol.2023.121893
R. H. Schreurs, M. E. Quaedackers, W. Seinen, B. van der Burg, Transcriptional activation of estrogen receptor ERalpha and ERbeta by polycyclic musks is cell type dependent, Toxicology and Applied Pharmacology, 183(1), 1-9 (2002). PMID 12217637. doi:10.1006/taap.2002.9458