はじめての調香 · 72
「バニラアイスにはカストリウムが入っている」——半分は本当で、間違っているほうは香調欄で確かめられる
· 7 分
ネットでいちばん広まっている香料の伝説のひとつだ。バニラ味の食品には、実はビーバーの腺嚢から搾ったものが入っている、という。調べられる。本当の部分——カストリウム抽出物は登録された食用香料で FEMA 2261 であり、Burdock 2007 の安全性評価は「少なくとも80年間、風味成分として食品に加えられてきた」と書いている。間違っている部分——データベースのカストリウム8件のうち、香調欄・風味欄・記述欄のどれにも vanilla という語が出てくるものは1件も無い。書かれているのはレザー、スモーキー、アニマル、フェノリック、古材、焦げだ。カストリウム・アブソリュートとバニリンが記述語で共有するのは「フェノリック」1語だけで、それは化学の族の語であって味が似ているという語ではない。ついでにサプライヤー数——バニリン193社、カストリウム8件で合計60社。
読了目安 4 分。
たぶん見たことがあるはずだ。「バニラ味の食品には、実はビーバーのお尻の横の腺嚢から搾ったものが入っている。」
たいていビーバーの写真と「もう戻れない」という一言が付いている。
この文は2つに割って調べられる。そして2つの答えは違う。
本当のほう
カストリウムは実際に食用香料であり、正式な番号も持っている。
Burdock が2007年に《International Journal of Toxicology》で出した安全性評価は、冒頭で身元を明かしている。
カストリウム抽出物(CAS 8023-83-4;FEMA 番号 2261)は、雄または雌のビーバーの乾燥・浸軟させたカストル嚢とその分泌物を熱アルコールで直接抽出して得られる天然物である。香水に広く使われてきたほか、少なくとも80年間、風味成分として食品に加えられてきた。
安全性の結論も出ている。FEMA と FDA はともに GRAS とみなす。動物の急性毒性試験では経口・経皮とも無毒で、皮膚刺激性も光毒性も無い。ヒト試験で皮膚感作は観察されていない。長期の低用量暴露は健康リスクをもたらさない。
つまり「食品添加物である」と「ビーバーの腺嚢に由来する」はどちらも本当だ。
間違っているほう
伝説がほのめかしているのは、それがバニラの代用として使われているということだ。
これは香調欄で確かめられる。
データベースで名前に castoreum を含む記録は8件ある。その odor、flavor、odor_descriptions、taste_descriptions の4欄をすべて引いて vanilla という語を探した。
0件だった。
実際に書かれているのはこうだ。
| 記録 | サプライヤー | 香調欄 |
|---|---|---|
| カストリウム・アブソリュート | 23 | レザー、スモーキー、アニマル、フェノリック、古材、焦げ、レジナス |
| カストリウム・レジノイド | 8 | カストリウム、アニマル、レザー、フェノリック、レジナス |
| カストリウム液(FEMA 2262) | 4 | カストリウム、アニマル |
| カストリウム・チンキ | 2 | レザー、アニマル、スイート、スモーキー |
| カストリウム抽出物 | 0 | カストリウム、アニマル |
カストリウム・アブソリュートの味の記述欄はこうだ。「レザー、アニマル、レジナス、スモーキー、古材、フェノリック、焦げ」。
甘くもなく、クリーミーでもなく、バニラでもない。
唯一の交点は「フェノリック」
カストリウム・アブソリュートとバニリンの香調欄を並べる。
| 香調タイプ | 香調欄 | |
|---|---|---|
| バニリン | vanilla | スイート、バニラ、クリーミー、チョコレート、フェノリック |
| カストリウム・アブソリュート | leathery | レザー、スモーキー、アニマル、フェノリック、古材、焦げ、レジナス |
7語と5語で、共通するのは1語だけ——フェノリックだ。
この1語には理由がある。バニリン自身がフェノールであり(4-ヒドロキシ-3-メトキシベンズアルデヒド)、カストリウムは大量のフェノール類を含んでいて、それがその匂いの一因だからだ。
つまり化学的な交点は確かにある。ただしその交点は「どちらもフェノールを含む」であって「バニラのような匂いがする」ではない。
香料の記述で「フェノリック」が意味するのは消毒薬、燻煙、薬、古材に近い——グアヤコールがその代表で、風味欄には本当にベーコンと書いてある。この語からアイスクリームを連想する人はいない。
ついでに規模を見る
サプライヤー数は販売量ではないが、収録の厚みくらいは示す。
- バニリン:193社、このデータベースでも供給が最も厚い材料のひとつ
- カストリウム8件の合計:60社、うち20社は「代替品」2件のぶん
- 本物のカストリウム記録の合計は40社で、FEMA 番号を持つ1件(カストリウム液)は4社しかない
サプライヤー4社の材料で世界中のバニラ味食品を支えるのは、桁の上で成り立たない。
(Burdock の論文には年間使用量の数字があるが、私は抄録しか読めていない。**だからその数字は引用しない。**ここではサプライヤー数を代理指標にしているが、それは弱い指標だ——サプライヤー数を入手性の判断に使えない理由は別に書いた。)
ではこの伝説はどこから来たのか
伝播の歴史は調べていないので、見えている部分しか言えない。
- **「カストリウムは食用香料である」は本当だ。**FEMA 2261、80年以上。
- **「バニラ味に使われている」は裏づけが見つからない。**データベースの風味欄はレザー型に分類していて、用途の記述はアニマル、レザー、スモーキーの系統だ。
- 食品表示の「天然香料(natural flavors)」は成分を列挙しないので、この主張は反証できない。そして反証できない主張はとくによく広まる。
これは覚えておく価値がある。ある主張が消えないのは、それがちょうどデータの見えない場所に落ちているからであることが多い。
実際にどうするか
- **「食品添加物かどうか」と「どの食品に入っているか」を分けて問う。**前者は調べられ、後者は調べられない。
- **材料の用途を調べるなら
flavor欄とflavor_typeを見る。**由来の物語ではなく。 - **「化学的に関係がある」という言い方を見たら、共通する記述語がいくつあるかを見る。**ここでは7対5のうち1つだった。
- サプライヤー数は桁の確認には使えるが、結論には使わない。
この記事が立証していないこと
- **どの食品会社が実際に何を使っているかは調べていない。**この記事が突き合わせたのはデータベースの欄と安全性評価1本だ。
- **Burdock の論文は抄録しか読めていない。**年間使用量、暴露量推定、完全な方法は見ていない。だから本文にそれらの数字は無い。
- 「vanilla を含む記録0件」はこのデータベース8件の欄の状態であって、世界中の香料データではない。別のデータベースでは違うかもしれない。
- **記述語の交点は粗い比較だ。**2つの材料が1語を共有しても匂いが似ているとは限らないし、逆も同じだ。
- **サプライヤー数は販売量でも使用量でも入手性でもない。**桁を見るためだけに使った。
- この伝説の起源と伝播は調べていない。
- 「天然香料は成分を列挙しない」は各地の表示規制の通例で、各国の条文を1つずつ確認してはいない。