はじめての調香 · 58
キャップを嗅ぐと何を嗅いでいることになるか——コーパス上位 36 本の揮発度は 83,333 倍開いている
· 11 分
r/DIYfragrance に、試香瓶を渡すと相手がキャップを外してアトマイザーを嗅ぐ、それで香水の全体が分かるとでも思っているのか、という不満が投稿された。その下に「あなたが嗅いでいるのは乾いた残液だけだ」という返信がついている。その指摘は正しく、しかも測れる。954 件の処方コーパスで最も多く使われる材料をデータベースの蒸気圧欄と突き合わせると、対応した 36 本はパラアニスアルデヒドの 1.0 mmHg からムスクケトンの 0.000012 mmHg まで、83,333 倍・4.9 桁の開きがある。エタノールが飛んだあとに残るのはこの表の底の側で、その帯の質量比は半数の処方で 0% になる。キャップが渡してくるのは香水の縮小版ではなく、ひどく偏った標本になる。
所要 7 分。
r/DIYfragrance に「調香をしていて何にいらつくか」というスレッドが立った。63 件の返信のうち、14 票を集めたのがこれになる。
「小さな試香瓶を渡すと、相手はキャップを外してアトマイザーを嗅ぐ。それで香水がどう匂うのか全部分かるとでも言うように」(Technophysicist)
その下に説明を足した人がいる。
「そう、キャップやアトマイザーを嗅いで香水を判断してはいけない。嗅いでいるのは乾いた残液だけになる。」(MediocreApprentice)
この指摘は正しい。そして測れる。
乾いた残液とは何か
アトマイザーの上のあの層は、エタノールが飛んだあとに残ったものになる。エタノールの蒸気圧は 44.6 mmHg(20 °C)で、香料材料の多くはそれより三桁から六桁低い。だからエタノールが先に去り、他は残る。
残ったものもいずれ去るが、その速さがまるで違う。「まるで違う」がどれだけ違うかは、そのまま調べられる。
954 件の公開処方コーパスで最も多く出てくる材料を、データベースの蒸気圧欄と突き合わせた。上位 60 本のうち 36 本が対応した。
最も高いのはパラアニスアルデヒドの 1.0 mmHg、最も低いのはムスクケトンの 0.000012 mmHg。
| 蒸気圧 @ 25 °C | 出現件数 | |
|---|---|---|
| パラアニスアルデヒド | 1.000000 | 60 |
| レモン油 | 0.950000 | 66 |
| フェニルアセトアルデヒド | 0.368000 | 57 |
| シトラール | 0.200000 | 72 |
| 酢酸ベンジル | 0.177000 | 317 |
| リナロール | 0.016000 | 338 |
| バニリン | 0.002000 | 137 |
| α-ヘキシルシンナムアルデヒド | 0.001000 | 157 |
| サリチル酸ベンジル | 0.000170 | 159 |
| ムスクケトン | 0.000012 | 84 |
83,333 倍、4.9 桁の開きになる。
同じ処方の中の材料が、五桁違う速さで去っていく。だからアトマイザーの上のあの層は処方の縮小版ではなく、処方の一区画になる。
その一区画はどれだけ小さいか
コーパスの各処方について、揮発度の帯ごとの質量比を計算した。(一件あたり平均で質量の 46% しか蒸気圧に対応させられないので、以下はその部分の中での比になる。)
| 揮発度の帯 | 質量比の中央値 | 平均 |
|---|---|---|
| > 0.1 mmHg(上端) | 19.7% | 27.9% |
| 0.01 – 0.1 | 31.3% | 35.2% |
| 0.001 – 0.01 | 20.0% | 25.7% |
| < 0.001(下端) | 0.0% | 11.2% |
中央値が 0.0%、平均が 11.2%。
つまり半数以上の処方はいちばん下の帯にほとんど何も置いておらず、少数の処方がそこに大量に置いている。
そしてその帯こそが、キャップの上に残るものになる。
キャップを嗅ぐという行為は、処方の中で最も偏った、最も代表性のない区画から標本を取っていることになる。最初の 20 分がまったく違う二本の香水が、ほとんど同じキャップを持ちうる。逆も成り立つ。
ここまでが綺麗すぎるので
結論が整いすぎているので、反対側を探した。
Osako と Nishida は 1992 年に『日本衛生学雑誌』で、匂いの閾値と飽和蒸気圧の相関を調べている。結果はいくつかの層に分かれる。
- 同族列の脂肪族化合物では、蒸気圧と閾値の相関が非常に良い
- しかしイオン化する物質(酸類、アミン類)と硫黄化合物では相関が良くない
- アルコールとアルデヒドの系列では、蒸気圧の低下にともなう閾値の低下の速度が小さくなる
一つ目は上の分析への修正になる。蒸気圧が低い材料は、同じ化学系列の中では閾値も低いことが多い。
つまりムスクケトンが残液の中で八万倍に濃縮されても、八万倍強く匂うわけではない。濃度は上がるが、もともと高い濃度でなければ嗅ぎ取れない側の材料でもある。
(データベースの強度欄もこれを裏づける。庫内で蒸気圧が最も低い香料の多くは、強度欄が low になっている。その最も極端な例はサリチル酸フェネチルの回に書いた。)
**だから正しい言い方は「キャップにはベースだけが濃く残る」ではなく、「キャップの組成は瓶の中とまったく違う」になる。**向きは確かで、倍率は確かでない。
本来のモデルはどうなっているか
上で使ったのは純物質の蒸気圧による順位づけで、一次近似になる。
Rodrigues らが 2021 年に Molecules で総説した香水工学の手法は、気液平衡と Fick の拡散則を使う。各成分の分圧はモル分率と純物質蒸気圧の積で、さらに活量係数の補正が入る。(このモデルが「保留剤が香りを掴む」という言い方をどう覆すかは〈保留剤は香りを掴まない〉に書いた。)
私が使ったのは純物質の蒸気圧の順位で、混合物の中の相互作用を無視している。
向きは同じになり、倍率は同じにならない。
「ムエットの最初の十秒」の方
同じスレッドの別の不満。
「ムエットの上の最初の十秒で香水を判断されるとき」(brabrabra222)
これは今なら装置で測れる。
Hadjiefstathiou らは 2024 年に Talanta で、塗布後の表面の上の空気中への香水の放出を測る装置を作った。八つの香料分子とエタノールからなる香水を用い、固相マイクロ抽出とガスクロマトグラフィーでヘッドスペースを分析している。
面白いのは比較された四つの表面で、化学的に不活性なガラス、Strat-M の皮膚モデル、香水のムエット、そして実際の皮膚になっている。
「ムエットは皮膚ではない」は経験則にとどまらず、両者の差を測る装置ができたということになる。(あの論文は方法論の論文で、力点は装置の有効性と再現性にあり、四つの表面の比較結論を出すことにはない。私が引いているのは「これは今や測れる」であって、具体的な差の値ではない。)
私には解けない観察
そのスレッドにはもう一つ、二人が別々の言語で同じことを書いている箇所がある。
「2 mL のスプレー瓶(ガラス瓶にプラスチックのアトマイザーとキャップ)をまとめて買って、試香をたくさん作った。最初にキャップを開けて試したとき、ほとんど魚のような匂いがした」(Haven416)
「こちらもまったく同じ。黒いプラスチックのアトマイザー部分がアルコールに触れると魚の匂いがする。」(Annual_Impression834、ポーランド語)
二人、二つの言語、同じ現象になる。
魚の匂いは化学的にはふつうアミン類を指す。データベースで香調タイプが fishy の材料の典型はピリジン(サワー、魚臭、アンモニア)とチアゾールになる。ただしプラスチック部品から何が出てくるのか、エタノールが何を抽出するのかは、このデータベースの項目にはなく、調べる手段がない。
未解決の問いとしてここに記しておく。同じことが起きたら、別の供給元のアトマイザーに替えるのがいちばん安い検証になる。
実際にどうするか
- **キャップを嗅がない。**処方の中で最も偏った区画で、しかも半数の処方はその帯にほとんど何も置いていない。
- **香水を判断するなら噴く。**ムエットでも皮膚でもいいので噴いて、待つ。
- **ムエットと皮膚は違い、その差は今や装置で測れる。**両方試す。
- **最初の十秒はエタノールと最上端の数本になる。**コーパスで > 0.1 mmHg の帯の質量比の中央値は 19.7% なので、最初の十秒で嗅いでいるのはおよそ処方の五分の一になる。
- **蒸気圧は順位づけには使えて、倍率の計算には使えない。**混合物では気液平衡が要る。
- **揮発度が低いことは存在感が弱いことでも強いことでもない。**閾値と蒸気圧は同じ系列の中では一緒に動き、二つの効果は逆を向く。
この記事が立証していないこと
- **ヘッドスペース分析は一切していない。**全編がデータベースの項目、コーパス、論文三本からの推論による。
- **83,333 倍はコーパス上位 60 本のうち「蒸気圧に対応した 36 本」の極値比になる。**材料の組を変えれば、対応率を変えれば、数字は変わる。
- **蒸気圧欄の全庫カバー率は 21% で、処方一件あたり対応できる質量は約 46% にとどまる。**残りの半分がどの帯にあるかは分からないので、上の帯別の比は「分かっている半分」の中での比になる。
- **蒸気圧の多くに(推定)が付いている。**推定値と実測値を混ぜて比べるのはリスクがある。
- **純物質の蒸気圧は混合物中の分圧ではない。**Rodrigues らの系列は気液平衡と Fick の法則を使っており、私が使ったのは順位になる。倍率は当てにならない。
- 蒸発の時間軸は計算していない。「エタノールが先、次に上端」は向きであって、時間の尺度は一つも持っていない。
- **Osako 1992 は日本語の論文で、標本は彼らが選んだ同族列の化合物になる。**相関が存在し例外もあることを示すもので、代入できる式ではない。
- **Hadjiefstathiou 2024 は方法論の論文。**証明しているのは装置の有効性で、四つの表面の具体的な差ではない。
- **魚の匂いの件はまったく説明できていない。**利用者の報告が二件あるだけで、検証は何もしていない。
- 「二本の香水が同じキャップを持ちうる」は推論で、実際に二本の残液を比べてはいない。