データの読み方 · 15
一つの分子式の下に217本の原料が並ぶ。バラからマッシュルームまで
· 12 分
分子式 C10H18O で検索して当サイトに来た人がいた。そこでデータベースを調べ直した。この分子式の下には217本の原料があり、78本が香調を持ち、19の香調型に散らばっている。バラのゲラニオール、ユーカリの1,8-シネオール、ミントのメントン、パクチーやマッシュルームの匂いがするデセナール。分子式は同一、分子量はすべて154.25。残香は1時間から388時間まで、388倍の幅がある。分子式欄を持つ21,610本のうち17,081本、79%は分子式が自分だけのものではない。この記事では、検索条件としての分子式がほとんど役に立たない理由と、二つの論文を扱う。広島の研究チームは2000年にリナロールの二つの鏡像異性体を比較し、主観評価だけでなく前額部の脳波も違うことを見つけた。2023年の《Science》に載った主嗅覚地図は、グラフニューラルネットワークで分子構造から香りの記述語を予測し、訓練された評価員の中央値を上回った。そのモデルが食べているのは構造グラフであって、分子式ではない。
読了まで約4分。
長い話を短く
- データベースで分子式が入っているのは 21,905件。
unspecifiedの295件を除くと21,610件が 6,710種の分子式に分かれる - そのうち 2,181種の分子式は2本以上に共有されていて、17,081本の原料、79%がそこに入る
- C10H18O の下には217本。78本が香調を持ち、19の香調型に散っている
- この217本は分子量がすべて 154.25。残香は 1時間から388時間まで
- 分子式を検索条件にすると、返ってくるのは一本ではなく棚一つ。一意に絞るなら CAS を使う
分子式から入ってきた検索
先月の Search Console に c₁₀h₁₈o という検索があった。下付き数字まで打ち込まれている。
表示5回、クリック0。分子式で原料を探している人がいる。
この検索がきっかけで、一度も調べたことのないことを調べた。 このデータベースでは、一つの分子式に平均何本の原料がぶら下がっているのか。
79%の原料は、分子式を自分だけのものにしていない
有効な分子式の記録は21,610件、それが6,710種の分子式に分かれる。平均すると一種あたり3.2本。
ただし平均には意味がない。分布が偏っているからだ。 2,181種の分子式が2本以上に共有され、その分子式が17,081本の原料を覆っている。 分子式を持つ原料を無作為に一本つかむと、79%の確率でその分子式の下には他の誰かも立っている。
混雑している上位10種はこうなる。
| 分子式 | 原料数 | この升目のおおよその中身 |
|---|---|---|
| C15H24 | 293 | セスキテルペン炭化水素。シダーやパチョリの骨格 |
| C10H18O | 217 | モノテルペンアルコールとエーテル。本稿の主役 |
| C10H16O | 210 | モノテルペンケトンとアルデヒド |
| C15H24O | 204 | セスキテルペンアルコール |
| C15H26O | 175 | 一段飽和したセスキテルペンアルコール |
| C10H18O2 | 171 | モノテルペンジオールとエステル |
| C12H22O2 | 141 | 中鎖エステルとラクトン |
| C11H20O2 | 123 | 同上、炭素が一つ少ない |
| C8H14O2 | 105 | 短鎖エステル |
セスキテルペン炭化水素の升目には293本。C15H24 で検索した人は300本近い答えを受け取る。
C10H18O の升目に立っているのは誰か
217本のうち、78本が香調欄を持つ。その78本は19の香調型に分かれる。
| 香調型 | 本数 |
|---|---|
| floral(フローラル) | 14 |
| herbal(ハーブ) | 9 |
| minty(ミント) | 9 |
| citrus(シトラス) | 8 |
| fatty(脂) | 6 |
| woody(ウッディ) | 6 |
| balsamic(バルサミック) | 4 |
| camphoreous(カンファー) | 4 |
| 残り11種が各1〜3本 | 18 |
サプライヤーが多い順に並べるとこうなる。
| 材料 | CAS | サプライヤー | 香調型 | 香気の先頭 | 残香(時間) |
|---|---|---|---|---|---|
| ゲラニオール | 106-24-1 | 198 | floral | 甘い、フローラル、フルーティ、バラ | 60 |
| リナロール | 78-70-6 | 135 | floral | シトラス、フローラル、甘い、ボアドローズ | 12 |
| α-テルピネオール | 98-55-5 | 103 | terpenic | パイン、テルペン、ライラック | 20 |
| ネロール | 106-25-2 | 85 | floral | 甘い、ネロリ、シトラス、マグノリア | 44 |
| 1,8-シネオール | 470-82-6 | 77 | herbal | ユーカリ、ハーブ、カンファー、薬 | 4 |
| シトロネラール | 106-23-0 | 70 | floral | 甘い、ドライ、フローラル、ハーブ | 16 |
| (±)-メントン | 89-80-5 | 42 | minty | ミント | 12 |
| (E)-2-デセナール | 3913-81-3 | 27 | fatty | ワックス、脂、土、グリーン、パクチー、マッシュルーム | 57 |
バラ、ユーカリ、ミント、マッシュルーム。分子式は同じである。
**分子量もすべて154.25で揃う。**分子量は分子式から計算されるもので、 分子式の外側の情報を何も運ばないからだ。残香のほうは割れる。 217本のうち47本が残香を持ち、1時間から388時間、388倍の幅がある。
違いは原子の数ではなく、骨格のつなぎ方にある
分子式が述べているのは原子のリストだけだ。炭素10、水素18、酸素1。 そのつながり方は何も言っていない。同じリストが分かれる道は少なくとも三つある。
**骨格そのものが違う。**1,8-シネオールは二環性のエーテル、ゲラニオールは開環の鎖状アルコール。 片方はユーカリのど飴、片方はバラの匂いがする。
**つなぎ方は同じで向きが違う。**ゲラニオールとネロールは同じ鎖のシス・トランス異性体。 データベース上のサプライヤー数は198社と85社、残香は60時間と44時間。 香調欄の先頭語はどちらも sweet だが、片方はバラへ、片方はネロリとマグノリアへ向かう。
**向きまで同じで、鏡像だけが違う。**これが次節の論文が扱ったものになる。
注目に値するのは、データベース自身も鏡像を別々に収めていることだ。
linalool(135社、残香12時間)と laevo-linalool(25社、16時間)は別の記録で、
香調欄も違う。前者はシトラス、フローラル、ボアドローズ、ブルーベリー。
後者は清潔感、フローラル、ウッディ、ナチュラル、ラベンダー。
カタログのデータは、鏡像を二つの商品として認めている。
広島の実験:鏡像の違うリナロールは、脳波まで違った
2000年、広島県立女子大学の Sugawara らが《Chemical Senses》で細やかな仕事をしている (PMID 10667997)。繰り返しのフラッシュカラムクロマトグラフィーで、 ラベンダー油から (R)-(−)-リナロール(比旋光度 −15.1°)を、 コリアンダー油から (S)-(+)-リナロール(+17.4°)を単離し、 市販品は R体50.9%、S体49.1% のラセミ (RS) 体(0°)とした。
被験者は吸入器でこの三つを嗅ぐ。タイミングは作業の前と後の各一回、 作業は環境音を聞く場合と、暗算のような知的作業の場合の二種類。 測ったのは主観評価の質問紙と、前額部表面の脳波(IBVA-EEG)である。
結果は原文どおりに書く。吸入後の主観的印象は、異性体の立体配置と作業の種類によって変わった。 たとえば環境音を聞いたあとに (R)-(−)-リナロールを嗅ぐと、質問紙の評価は明らかに好ましくなり、 同時に β 波は作業前と比べてより大きく下がった。同じものを知的作業のあとに嗅ぐと、 今度は苛立ちの傾向が出て、β 波は上がった。
著者の結論は、リナロールの鏡像特異性が異なる嗅覚知覚と反応を引き起こした、 それもキラリティだけでなく課題にも依存して、というものだ。
この論文は慎重に読む必要がある。標本規模は小さく、測っているのは嗅覚受容体ではなく 前額部の表面電位で、効果そのものが課題依存だ。同じ材料が前の文脈次第で逆方向に向かう。 支えられる結論は一つだけになる。二つの鏡像は同じ匂い刺激ではない。 原子のリストは完全に一致しているのに。
《Science》のモデルも分子式は食べていない
二つ目は2023年の《Science》に載った主嗅覚地図(POM) (Lee ら、PMID 37651511、Google Research と Monell 化学感覚センターの共同研究)。 グラフニューラルネットワークで分子を知覚関係の保たれた地図上に写し、 記述されたことのない匂い分子の香調を予測する。
成績は書き写しておく価値がある。標本外の匂い分子400件からなる前向き検証セットで、 モデルが出した香りのプロファイルは、評価パネルの中央値の評価員よりもパネル平均に近かった。 匂いを言葉にする信頼度が、訓練を受けた人間の評価員の水準に届いたということになる。
利益開示も原文どおり付けておく。この仕事は Google Research の資金で行われ、 複数の著者が査読期間中に Osmo Labs に加わり株式を保有している。 論文の利益相反声明はかなり長い。
ただしここで指したいのは精度ではなく、何を入力にしているかだ。 グラフニューラルネットワークが受け取るのは分子のグラフである。 どの原子がどの原子と、どんな結合で、どんな立体配置でつながっているか。 分子式は、そのグラフから辺をすべて捨てたあとに残るリストにすぎない。 現在いちばん良い構造—匂いモデルで、分子式から出発しているものは一つもない。
では検索には何を使うのか
- **一意に絞るなら CAS。**C10H18O は候補を217件返すが、CAS 106-24-1 はゲラニオールのページを返す。 当サイトの検索は名称と CAS に対応している。
- **分子式しか分からないなら、香調の棚として歩く。**受け取るのが1本ではなく217本だと 分かっているだけで、その予期は役に立つ。
- 同じ CAS でも一意とは限らない。同じ CAS、違う香調型で この件を測っている。CAS は分子式より厳しいが、完全に綺麗でもない。
→ 香調で検索:42,225件の原料を、香調・名称・CAS のいずれからでも探せます。
この記事が立証していないこと
- **217本のうち香調欄があるのは78本だけ。**残り139本にデータはない。 「217本の匂いがそれぞれ違う」とは言えず、既知の78本が19の香調型に散っているとしか言えない。
- **分子量がすべて同じなのは発見ではなく定義。**分子量は分子式から計算される。 この行は、分子式が運べない情報の量を示すために置いてある。
- Sugawara らの標本は小さく、測ったのは前額部の脳波であって嗅覚受容体の活性ではない。 効果も課題によって変わる。
- POM が予測するのは香りの記述語であって、残香・強度・安全性ではない。 それらの欄は測定に頼るしかない。
- 香調型の分類は出典データのもので、当方で付け直したものではない。19という数字は 元の付与の粒度を引きずっている。