原料図鑑 · 174
原料図鑑:trans-アネトール —— メチルチャビコールと分子式が同じで、二重結合が一つ隣なだけで、片方に遺伝毒性がある
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CAS 4180-23-8、サプライヤー96社。分子式 C10H12O にはデータベース上で四件の記録と四つの CAS が対応する。trans-アネトール96社、estragole 47社、シス・トランス未指定の anethol 18社、cis-アネトール0社。分子式も分子量148.20も同じで、違うのは二重結合が側鎖のどの位置につくかだけだ。ところがその一つ分の差が、両者をまったく別の法規の世界へ送り込む。1999年の FEMA 専門家パネルの評価は機構ベースの方法をとっている。trans-アネトールの肝毒性は代謝物アネトールエポキシドに由来するが、本体もエポキシドも遺伝毒性の証拠を示さないため、雌ラットの高用量で見られた肝腫瘍は肝毒性の二次的な結果と判定された。香料としての摂取量54 µg/kg/日に対し雌ラットの NOAEL は120 mg/kg/日で、安全域は少なくとも一万倍になる。位置が一つ違う estragole のほうは、遺伝毒性を持つ1'-スルホキシ代謝物へ代謝される。実務では二つ。融点21〜23 °C で寒いと瓶の中で結晶化し、溶解度欄には「鉄のドラムを避けよ」という一文が紛れている。水を足すと白濁する現象には専用の物理があり、2024年の論文が ouzo 三成分系の相図を測っている。
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長い話を短く
- 名称:(E)-anethol(trans-アネトール)、CAS 4180-23-8、FEMA 2086、サプライヤー96社
- 香調型 licorice。香気:甘い、アニス、リコリス、ミモザ、薬。強度 high、10%以下での評価を推奨
- 分子式 C10H12O。同じ分子式にデータベース上で四件の記録と四つの CAS が対応する
- 残香20時間、蒸気圧0.069 mmHg、融点21〜23 °C(室温がやや低いと結晶化する)
- 法規は四項目すべて収載:JECFA 217、FEMA GRAS 2086、CoE 183、FLAVIS 04.010、FCC 収載
- GHS:H317 皮膚感作 区分1。ただし EU が具名表示を求める26種には入っていない
- 溶解度欄に操作上の注意が一つ紛れている:鉄のドラムを避けよ
一つの分子式、四件の記録、四つの CAS
| 記録 | CAS | サプライヤー | 香調型 | 残香 |
|---|---|---|---|---|
| (E)-anethol(トランス) | 4180-23-8 | 96 | licorice | 20時間 |
| estragole | 140-67-0 | 47 | anisic | 8時間 |
| anethol(シス・トランス未指定) | 104-46-1 | 18 | licorice | (空) |
| (Z)-anethol(シス) | 25679-28-1 | 0 | anisic | (空) |
四件とも分子式は C10H12O、分子量は148.20。違いは二重結合がどこにあるかだけになる。
トランスとシスのアネトールは、どちらも二重結合が側鎖の1〜2番目の炭素のあいだにあり (ベンゼン環と共役している)、両側の置換基が同じ側を向くか反対側を向くかで分かれる。 estragole は二重結合が2〜3番目の炭素へ移った末端のアリル型になる。
この表から三つ落ちてくる。
一つ目。シスの記録はサプライヤーが0で、香気欄も丸ごと空。 誰も売っておらず、匂いを記入した人もいない。この異性体に対する市場の態度がその0に書かれている。
二つ目。anethol という記録があり、CAS 104-46-1、シス・トランス未指定で18社。 見積書に「anethole」としか書かれていなければ、届くのはこれかもしれない。 トランスが欲しいなら (E) か trans と書くか、CAS 4180-23-8 を直接指定する。
三つ目。estragole はバジル油の記事の主役だ。 同じ分子式で位置が一つ違うだけであり、その一つ分の代償は次節に出てくる。
二重結合が一つ隣にあるだけで、代謝経路が分かれる
バジルの記事の結論を持ってくる。estragole は遺伝毒性と発がん性を持つ 1'-スルホキシ代謝物へ代謝され、それが規制される理由になっている。
trans-アネトールは違う。1999年に FEMA の専門家パネルが発表した安全性評価 (PMID 10496381)は機構ベースの方法をとった。肝毒性代謝物である **アネトールエポキシド(AE)**の生成量を追い、それによって齧歯類の種と性別ごとに 慢性・亜慢性の飼料試験で観察された病理変化を解釈する。
肝心の一文をそのまま。trans-アネトールも AE も、遺伝毒性の証拠を何ら示さない。
分子式が同じ二つが、別々の法規の世界へ入っていった。位置が一つ違うだけで代謝経路が違う。
FEMA の評価はどう計算したか
この評価はもう少し読む価値がある。「肝腫瘍が出た」が「発がんリスクがある」を 意味しないことの、完全な論証になっているからだ。
種と性別の選択。雌の Sprague Dawley ラットは trans-アネトールを AE に代謝する割合が マウスやヒトより高く、そのためヒトのリスク評価では最も保守的なモデルになる。 雌では「速い」解毒酵素であるエポキシドヒドロラーゼの活性が低く、肝毒性も雄より顕著になる。
用量のどこで折れるか。低暴露では、齧歯類では主に O-脱メチル化、 ヒトでは主にω-酸化によって効率よく解毒され、エポキシ化は副次的な経路にとどまる。 高用量では(とくに雌で)代謝が移行し、エポキシ化が増えて AE の生成が上がる。
**観察された閾値。**慢性飼料試験では、推定される一日あたりの肝臓 AE 生成量が 30 mg AE/kg 体重を超えたときに肝毒性が観察された。雌ラットでは 550 mg trans-アネトール/kg 体重/日の摂取で慢性肝毒性と低頻度の肝腫瘍が報告され、 その条件下では肝臓の AE 生成が120 mg/kg を超えていた。
**結論の出し方。**どちらにも遺伝毒性がないため、著者は雌ラットの肝発がん作用を 非遺伝毒性の機構と判定した。高濃度の AE による肝毒性のあとに続く二次的な結果である、と。
安全域。香料用途の摂取量は 54 µg/kg 体重/日。2年以上の研究における雌ラットの NOAEL は 120 mg/kg 体重/日で、その用量が生む AE(22 mg/kg/日)は 香料摂取が生む AE(0.002 mg/kg/日)の少なくとも一万倍にあたる。
学ぶべきは結論だけではなく、この推論の形だ。まず毒性の機構分子を特定し、 次にその経路がヒトの実際の使用量では作動しないことを示す。 香料の安全性研究をどう読むかで扱った 方法の、完成した実例になる。
水を足すと白くなるのには物理がある
trans-アネトールの水溶解度は 98.68 mg/L(est)しかないが、アルコールには完全に溶ける。 だからアニス酒を飲んだことのある人なら誰でも見たことのある現象が起きる。
2024年、ラフバラ大学とエディンバラ大学の Archer らがこの系を研究している(PMID 38748245)。 冒頭が機構をきれいに書いている。ouzo の成分は水、アルコール、trans-アネトール油である。 油は水に不溶だがアルコールには完全に溶けるので、スピリッツに水を加えると 利用できるアルコールが枯渇し、混合物は自発的に乳化する。 この過程は一般に louche 効果あるいは ouzo 効果と呼ばれる。
彼らが行ったのは、この三成分系についてこれまで誰も調べていなかった部分、 共存相の性質だ。共存相を結ぶタイライン、臨界点(三成分系では褶点とも呼ばれる)、 アルコール濃度を変えたときの表面張力と密度を測定し、熱力学の理論も提示した。 相互作用パラメータを適切に選べば、理論は実験のほぼすべての特徴を再現する。
調香の実務的な意味は直接的だ。アネトールを含むアルコール処方は、水を足せば白濁しうる。 処方が壊れたのではなく、三成分の相図が二相領域に入っただけになる。 避けたいなら含水量を管理し、避けないなら白濁を製品の特徴として受け入れる。
21 °C で結晶化し、そして「鉄のドラムを避けよ」
損をしやすい欄が二つある。
**融点21〜23 °C。**外観欄には「白色無色の結晶」とある。 室温よりやや低い環境では、瓶の中身は固体になる。冬に結晶化したアネトールが 届いても正常な物理現象で、ぬるま湯で戻せばよい。ただし秤量の前に完全に融かして よく混ぜること。そうしないと取り分の比率が偏る。
溶解度欄に「avoid iron drums」(鉄のドラムを避けよ)が挟まっている。 この一文は溶解度とは関係のない、保管上の警告だ。 ジュニパーベリー油の記事で備考欄の継ぎ目を扱ったが、 これは同じ現象が別の欄で起きたものになる。 重要な操作情報が間違ったマスに落ちていて、検索にかからない。
もう一つ対照しておく価値がある。GHS の一行目は H317 皮膚感作 区分1 だが、 これは EU が具名表示を求める26種のアレルゲンには入っていない。 その記事で測ったとおり、 表示一覧と危険有害性分類は目的の違う二つの名簿で、一致しないのが常態になる。
買い方と保管
サプライヤー96社。買う前に注意すること。
- **CAS を省略しない。**トランスが欲しいなら 4180-23-8 と書く。「anethole」とだけ書くと 未指定の 104-46-1 が来るかもしれない。
- **グレード欄には USP(technical)と FCC(食品級)が並ぶ。**用途がグレードを決める。
- **鉄の容器に小分けしない。**データベースのその一文は欄を間違えているが、内容は本物だ。
- **結晶で届いても返品しなくていい。**融点21〜23 °C、戻して融かし、混ぜてから秤る。
- 強度 high、10%以下での評価を推奨、残香は20時間しかない。声の大きいミドル前半であって ベースノートではない。
- 保存期間24か月、密封遮光。引火点90.56 °C。
→ データベースの trans-アネトール:物性一式、96社の供給元、推奨ブレンド。
この記事が立証していないこと
- **「シスに供給元がないのは毒性のせい」は立証していない。**データベースはサプライヤーが0で 香気欄が空だと示すだけで、理由は書いていない。
- FEMA の評価は1999年のもので、当時の証拠と当時の方法による。現行規制は最新版に従う。
- その評価が対象としたのは食品用途の摂取量であって、皮膚接触でも吸入でもない。 H317 は別の話をしている。
- estragole の遺伝毒性はバジルの記事の出典に依っているもので、 本稿の二つの文献によるものではない。両者は互いを裏づけない。
- ouzo の論文が測ったのは水—エタノール—trans-アネトールの三成分系で、 実際の処方には数十種の他材料が入る。相図をそのまま当てはめることはできない。