はじめての調香 · 18
始めるのに化学の知識は要るのか——要らない。ただし、飛ばせない算数が一つある
· 12 分
29件の返信は一致して「化学は要らない」と答えた。それは正しい。ただしそのスレッドで2点しか付いていない一件だけが、実際に噛みついてくるものを名指ししていた。IFRAの上限を守るには百分率を計算できる必要がある、と。954件の公開処方の予備希釈の行をすべて数えたところ、68%の処方に、紙の上の数字が実際の材料量の10倍になっている行が少なくとも1つあった。そして数えている最中に、私自身が同じ間違いを二度やった。
r/DIYfragrance に、香水を作り始めるのに化学の知識はたくさん要るのか、という問いが立った。まずは家にある精油から始めるつもりだが、本格的に進めるなら後で化学が必要になるのか、と。
29件の返信は一致していた。要らない。 単品で学ぶほうが精油で学ぶより簡単だという返信、やりながら少しずつ身につくという返信。化学工学の出身者は、自分はその面が面白いと思うが必須ではない、と書いていた。
みな正しい。ただし2点しか付いていない返信が一つ、ほかの誰も言わなかったことを名指ししていた。
IFRAの安全規定を守るには、百分率を計算できるだけの化学あるいは数学は必要になる。
この記事はその一文についてのものになる。その算数がどれだけ噛みついてくるかは、測れるからだ。
まず要点
- 化学の知識は要らない。 スレッドの総意は正しく、これを覆すつもりはない。
- ただし954件の公開処方のうち、68%に、紙の上の数字が実際の材料量の10倍になっている行が少なくとも1つある。過大評価の倍率は中央値でちょうど10倍、90パーセンタイルで24倍、99パーセンタイルで100倍になる。
- これは IFRA に直結する。係数を10倍間違えれば、上限についての判断も10倍ずれる。
- この集計をしている最中に、私自身が同じ間違いを二度やった。 後述する。
読了の目安は8分ほど。
その算数の姿
処方表にこういう行がある。
57.73 gamma-undecalactone 10%
初心者は「この材料が処方の57.73%」と読む。実際には、その57.73部はすでに10%に希釈された溶液であり、原液は5.77%になる。10倍の差だ。
これは例外的な事例ではない。954件の処方の17,481行のうち、
| 行の種類 | 件数 |
|---|---|
| 通常の原液の行 | 15,169 |
| 予備希釈の行 | 2,216 |
| 純度規格の行(「50% min.」など) | 88 |
653件(68%)に予備希釈の行が少なくとも1つあり、中央値は3行、最多の処方には20行ある。
その行を原液として読むと、こうなる。
| 中央値 | |
|---|---|
| その行が紙の上で占めて見える量 | 4.38% |
| 原液に換算した実際の量 | 0.413% |
| 過大評価の倍率 | 10.0× |
| 90パーセンタイル | 24.2× |
| 99パーセンタイル | 100× |
差の大きい行を挙げる。
| 紙の上 | 実際 | 名前 |
|---|---|---|
| 57.73% | 5.77% | gamma-undecalactone 10% |
| 53.85% | 5.38% | Muscenone 10% |
| 50.00% | 5.00% | siam benzoin resinoid 10% |
| 35.00% | 3.50% | raspberry ketone 10% |
| 33.75% | 3.38% | lilial 10% |
入れ子の希釈
もっと厄介な変種もある。コーパスにはこういう行がある。
pharaone 10% 1% DIPG
10%の母液をさらに1%へ希釈したものになる。二つの係数は掛け合わされるので、原液は紙の上の 0.1%、つまり千分の一になる。数は少なく、見つかったのは10行だけだが、見た瞬間に分かる必要がある。
同じ族には phenyl acetaldehyde 85%/pea 10% のような書き方もある。二つの数字の意味はまったく違う。85% は純度、10% は希釈になる。名前に複数の百分率があるときは、それぞれが何をしているのかを先に確定させる。
同じ間違いを二度やった
この集計の最初の版では、名前の中の百分率をすべて希釈として扱った。その出力にこの行があった。
64.94 alpha-isomethyl ionone (50% min.)
私のコードはこれを50%溶液と判定し、「実際は32.47%」と報告した。これは誤りになる。「50% min.」は純度規格であり、そのグレードでα-イソメチル体が少なくとも50%を占めるという商品仕様であって、希釈ではない。この種の行は88ある。
気づいて除外条件を足し、そこで二度目の間違いをした。条件が広すぎて、cumin seed oil 10% と peppermint oil 10% まで落としてしまった。この二つは本当の希釈液で、名前にたまたま私の規則が拾う語が入っていただけだった。
最終版は、百分率の直後に min. か max. が続く場合だけを純度規格と判定する。
これを書き残すのは、これがまさにこの記事の主題である間違いそのものだからになる。同じパーセント記号が、置かれた位置によって希釈倍率にも純度の下限にも配合量にもなり、三つは扱いが違う。コーパスもスクリプトも再実行し放題の条件で、私は二度続けて外した。深夜に天秤の前で手計算している人が、それより有利な立場にいるはずがない。
なぜこれが安全に届くのか
2点のあの返信は因果の鎖を正しく捉えていた。IFRAの上限は完成品中の百分率であり、手元にあるのは部数の書かれた表と、濃度がまちまちの母液の棚になる。そのあいだにあるものはすべて算数だ。
具体例を一つ。10%母液を使い、総量1000部の表に20部と書き、完成品の加香率を20%とする。
- 表の上では、その材料は処方の 2%
- 10%母液なので、原液は 0.2%
- 加香率20%を掛けて、完成品中の濃度は 0.04%
途中の一段を飛ばせば 0.4% に着地する。10倍のずれになる。IFRAのカテゴリー4の上限には、この桁に落ちるものが少なくない。上限の調べ方はこちら。
Lee らが2025年に韓国市場の267製品で行った確率論的リスク評価では、曝露のばらつきの主要因が製品中の濃度、使用の頻度と量、希釈率だと特定されている。つまりこの算数は帳簿の問題にとどまらない。リスク評価全体で最も重みの大きい入力になる。
10倍の誤りは研究された失敗様式になる
参照点を一つ置いておく。Doherty と Mc Donnell は2012年、Pediatrics で大学附属小児病院の5年間の投薬安全報告を精査し、6,643件の報告から 252件の10倍投薬エラーを特定した。うち 22件で患者に害が生じている。最も多く報告された薬剤はモルヒネだった。著者らが挙げる寄与要因には、用量計算の誤り、小数点の記載、ゼロの混同が含まれる。
この類比は正しい縮尺で置きたい。 病院にはダブルチェックも標準化された指示セットも訓練された職員もあり、結果の重大さは家庭の作業台とはまったく桁が違う。この研究が与えるのは警告ではなく事実になる。10倍の誤りは、チェック機構のある専門的な環境でも繰り返し起きる、記録され研究された特定の失敗様式である。 その原因は小数点と単位換算であって、知識不足ではない。
だから答えは「化学を学べ」ではなく、「この誤りを起こしにくい習慣を作れ」になる。
三つの習慣
一つ、体積ではなく重量で作業する。 あのスレッドの長い返信の一つがこの点を挙げており、それは正しい。体積は温度と標高で動くが、15グラムはどこでも15グラムになる。秤量と希釈に手順の全体がある。
二つ、処方表には常に原液のグラム数を書き、母液はそこへ到達する手段にとどめる。 これが最も強い防護になる。インドールを0.2 g入れたいなら、表に0.2 gと書き、その横に「10%母液 2.0 g」と添える。二つの数字が紙の上にあれば、係数を落とすことはない。
三つ、瓶に濃度を、目立つ位置に書く。 コーパスのあの行が人を誤らせるのは、濃度の情報が名前の末尾に押し込まれているからだ。自分の棚で同じことを再現しない。
化学は何を買ってくれるのか
反対側にも公平でありたい。化学の知識は確かに何かを買ってくれる。ただし入口ではない。
酸化:なぜリナロールとシトラールは純品では穏やかで酸化すると感作するのか、なぜアルデヒドは窒素を欲しがるのか。この一組は保管の習慣を直接変える。
溶解性:なぜサリチル酸ベンジルはアルコールで素直に振る舞い、水系製品では抵抗するのか。なぜ樹脂の一部にはTECが要るのか。
小さな変換、一本の新しい香りの線:ゲラニオールをアセチル化して酢酸ゲラニルにすると、ローズが洋梨とラベンダーへ動く。この対を一度嗅ぐほうが、定義を覚えるより早い。
どれも始めた後で拾えばよいもので、始める前の条件ではない。スレッドの総意は保たれる。
この記事が立証していないこと
コーパスの74%は特許や出典の行を伴う。 予備希釈の書き方は、この公開文書群の慣例を映したものであって、あらゆる処方表がそう書くわけではない。
分類は規則ベースになる。 名前の中の百分率と min./max. に依存するので、母液であることを明示しない行は取りこぼすし、想定していない書き方を誤読しうる。2,216は下限として扱いたい。
10倍エラーの研究は病院のデータになる。 薬物の投与と香料の処方は、結果の重さもチェック機構も訓練も異なる。この研究は「この種の誤りが実在し研究されている」ことを示すためだけに使っており、香水処方の誤り率の推定には使えない。
初心者が実際にどれだけ間違えるかは測っていない。 測ったのはコーパスで誤読しやすい行がどれだけ一般的かであって、何人が誤読したかではない。それには別の研究が要る。
参考文献
C. Doherty, C. Mc Donnell, Tenfold medication errors: 5 years' experience at a university-affiliated pediatric hospital, Pediatrics, 129(5), 916–924 (2012). PMID 22473367. doi:10.1542/peds.2011-2526
H. Lee ほか, Probabilistic risk assessment of emerging EU-regulated fragrance allergens in household and personal care products, Environment International, 200, 109530 (2025). PMID 40398361. doi:10.1016/j.envint.2025.109530