原料図鑑 · 49
原料図鑑:サリチル酸ベンジル(benzyl salicylate)—— ほとんど匂わないのに、処方の1割を占められる
· 12 分
CAS 118-58-1。強度の評価は「低」なのに、ムエット上では384時間もつ。当サイトの954件の処方コーパスでは11位、出現率16.7%、配合量の中央値は9.47%で、上位15本の中でも重く使われるほうに入る。2025年の The Plant Cell は、これを植物のサリチル酸生合成の中間体として位置づけた。2026年の in vitro 研究は、15種のサリチル酸エステルの中でこれが最も強い 11β-HSD2 阻害を示すと報告している。
フォーラムで良い問いを見かけた。Iso E Super とヘディオンを何にでも入れるべきでないのなら、処方の大きな枠には他に何を置けるのか、というものだ。量を増やすと崩れる材料は多いし、リナロールを足しても解決しない、と投稿者は書いていた。返信は31件。
その答えの一つがこれになる。当サイトのコーパスで11位、配合量の中央値は 9.47%。上位15本の中でも重く使われるほうに入る。
まず要点
- データベースの強度評価は「低」。香気表現はバルサミック、クリーン、ハーバル、オイリー、甘い。ほとんど前に出てこない。
- それでいてムエット上で384時間もつ。低い強度と長い寿命の組み合わせが、大量に使える理由になる。
- イランイランとカーネーションアブソリュートに天然に存在する。 純粋な実験室の分子ではない。
- 近年の論文が二本ある。一本は植物のサリチル酸生合成の中に位置づけるもの、もう一本は in vitro の内分泌関連の機構研究になる。二本目は慎重に読みたい。
基本データ
| CAS | 118-58-1 |
| 化学名 | サリチル酸ベンジル(salicylic acid, benzyl ester) |
| 分子式 | C₁₄H₁₂O₃ |
| 分子量 | 228.25 |
| 種別 | 天然に存在し、合成も行われる |
| 香調 | バルサミック、クリーン、ハーバル、オイリー、甘い |
| 香調分類 | balsamic |
| 強度 | 低 |
| 持続 | 384 時間(ムエット、原液 100%) |
| 外観 | 無色から淡黄色の澄明な油状液体〜固体 |
| 沸点 | 208 °C @ 26 mmHg/168–170 °C @ 5 mmHg |
| 引火点 | 180 °C |
| 比重 | 1.173–1.181 @ 25 °C |
| 屈折率 | 1.579–1.583 @ 20 °C |
| logP | 3.20(推定) |
| 天然での存在 | イランイラン油 1.37%、イラン CO₂ 抽出 3.66%、カーネーションアブソリュート 3.90%、ナルシスアブソリュート 0.17%、ジャスミン、クローブ |
| 保管 | 24か月以上。冷暗所、乾燥、密閉、熱と光を避ける |
| 法規収載 | FEMA 2151、JECFA、CoE、FLAVIS |
| 供給元 | 58 社 |
| コーパス順位 | 11位(954件中159件、16.7%、配合量の中央値 9.47%) |
表の平易な読み方。比重 1.173 は水に沈むという意味になる。香料では珍しく、たいていの材料は水に浮く。屈折率 1.58 も高い。この二つを合わせると同定しやすく、入荷時の規格確認に使える。引火点 180 °C は極めて高く、輸送も保管もほぼ制約を受けない。
「強度が低い」ことが利点になる理由
初心者は強度を価値と結びつけがちで、強いほど1グラムあたり得だと考える。この材料は逆の使い方を見せてくれる。
強度が低いとは、同じ重量で近隣の材料より少ない香気信号しか出さないということになる。だからこれを主役にした構成は失敗する。裏返すと、処方を横へ押しやらずに大量に入れられるということでもある。しかもそのグラム数は空ではない。全体の厚みを支え、速く飛ぶ材料を長く留め、処方が「薄く」聞こえる隙間を埋める。
384時間という記録が要になる。自分自身がゆっくり動くので、着香の後半にも残っている。保留(定香)で説明した仕組みの、具体的な一例になる。
念のため繰り返すと、この時間のフィールドが測るのは紙の上の原液であって、希釈して肌に乗せたものではない。両者は換算できない。
9.47% がどれくらいか
コーパス上位の配合量の中央値を並べてみる。
| 材料 | 出現率 | 配合量の中央値 |
|---|---|---|
| フェニルエチルアルコール | 28.7% | 10.00% |
| サリチル酸ベンジル | 16.7% | 9.47% |
| ヒドロキシシトロネラール | 16.9% | 8.00% |
| α-ヘキシルシンナムアルデヒド | 16.5% | 8.00% |
| ヘディオン | 17.3% | 7.00% |
| リナロール | 35.4% | 5.93% |
| オイゲノール | 16.9% | 1.70% |
コーパスで最も頻出するリナロールは、配合量の中央値が 5.93% にとどまる。頻度で11位のこの材料は 9.47% になる。よく出てくることと、重く使われることは別の性質になる。 大きな枠に何を置くかを尋ねる人が見るべきなのは、右の列のほうだ。
植物の中では本業を持っている
Ma らが2025年に The Plant Cell で発表した論文は、この材料をまったく別の枠に置く。
植物はサリチル酸を二つの経路で作るが、PAL 経路のベンゾイル CoA からサリチル酸までの段階は未解明のままだった。著者らは CRISPR/Cas9 でポプラのベンズアルデヒド合成酵素をノックアウトし、得られた植物では安息香酸ベンジル、サリチル酸ベンジル、サリチル酸がいずれも減り、安息香酸が蓄積した。続いて HSR203J 遺伝子がコードするカルボキシエステラーゼがサリチル酸ベンジルを特異的に加水分解することを示し、Nicotiana benthamiana でこれを抑制するとサリチル酸への変換が低下した。
提案されたモデルはこうなる。ベンゾイル CoA が安息香酸ベンジルへエステル化され、サリチル酸ベンジルへ変換され、そのエステルがサリチル酸を放出する。香料材料は、その経路の中間体になる。
サリチル酸は植物では防御のシグナル分子になる。処方に厚みを与えるために買っているものが、ポプラにとっては中継地点になる。使い方が変わる話ではないが、この分子がイランイランやカーネーションに天然に現れるのが偶然でない理由にはなる。
慎重に読みたい in vitro 研究
2026年、Dai らが Toxicology and Applied Pharmacology に、15種のサリチル酸エステルによる 11β-ヒドロキシステロイド脱水素酵素2型(11β-HSD2)の阻害を報告した。この酵素はコルチゾールを代謝し、胎盤でグルココルチコイドの障壁として働く。
サリチル酸ベンジルは15種の中で最も強い阻害剤で、ヒト酵素に対する IC50 が 18.53 μM、ラット酵素に対して 29.25 μM だった。表面プラズモン共鳴はヒト 11β-HSD2 への直接結合を示し、KD は 21.6 μM、NAD⁺ の結合を妨げることを示唆している。胎盤由来の細胞株である BeWo 細胞では、活性の高いサリチル酸エステルがおおむね非細胞毒性の条件下でコルチゾン産生を低下させた。
この論文は慎重に読みたい。 精製酵素の速度論、SPR 結合、細胞株、分子モデリング、探索的なネットワーク毒性学からなる in vitro の機構研究になる。著者ら自身の結論も、グルココルチコイド代謝への干渉の可能性に対する機構的証拠を in vitro で提供する、という書き方をしている。ヒトの曝露評価は行っていないし、μM 単位の濃度を肌の上で到達するかどうかへ換算してもいない。
ここに置いた理由は、この材料の配合量の中央値が 9.47% で重く使われる側に入るからだ。新しい機構研究は知っておく価値があり、RIFM と IFRA が今後の評価に取り込むかどうかも見ておきたい。香料の安全性研究の読み方で扱った一般原則がそのまま当てはまる。in vitro の機構研究は問いを立てるものであって、判決を下すものではない。
嗅ぐときに
- まず原液を嗅ぎ、退屈だと認める。 それが正しい反応になる。この材料の価値は単体では出てこない。
- 一度 A/B をやる。 小さな処方を二版作り、片方にこれを 8% 入れ、他はすべて同じにする。差は厚みと後半に出る。トップには出ない。この実験は記事を十本読むより役に立つ。
- オイリーさに注意する。 濃度をさらに上げると油っぽい質感が主張し始め、処方が少しもたつく。
- イランイラン油と並べる。 油の中にすでに 1.37% 入っている。それを聞き分けられれば、「天然油は混合物である」という言葉に具体例が一つ増える。
買い方と保管
供給元58社で入手しやすい。名前も素直で、benzyl salicylate か salicylic acid benzyl ester、CAS は 118-58-1 になる。
室温では純度と温度によって液体にも固体に近い状態にもなる。これは正常な挙動だ。引火点 180 °C なので保管に防火上の懸念はない。密閉と遮光で足り、表示上の保存期間は24か月以上。
使用量が多いため、まとめ買いの価値がある数少ない材料になる。中央値 9.47% で見積もると、香料原液を100グラム作るのに10グラム近くを消費する。
法規と安全
GHS は四項目。H317 アレルギー性皮膚反応を起こすおそれ、H319 重篤な眼刺激、H371 臓器の障害のおそれ、H401 水生生物に毒性。 後ろの二つは香料材料では比較的珍しい。手袋と保護眼鏡を着け、廃液を流しに直接捨てないこと。
急性毒性はラット経口 LD50 が 2,227 mg/kg、ウサギ経皮 LD50 が 14,150 mg/kg。
EU が化粧品の成分表への名指し表示を義務づける香料成分の一つでもある。収載は FEMA 2151、JECFA、CoE、FLAVIS で、名簿そのものは使用上限を示さない。皮膚と消費者向け製品に使うなら、現行の IFRA Standards と自分の市場の規則を確認する。自分で確かめる手順はこちら。
→ データベースのサリチル酸ベンジル:物性の全項目、供給元58社、推奨ブレンド。 → 香調で検索:「バルサミック 甘い クリーン」と入力。
参考文献
D. Ma ほか, Salicylic acid biosynthesis via the PAL pathway requires benzaldehyde synthase and a benzyl salicylate-specific esterase, The Plant Cell, 37(10), koaf241 (2025). PMID 41092096. doi:10.1093/plcell/koaf241
Y. Dai ほか, Salicylate esters inhibit human and rat 11β-Hydroxysteroid dehydrogenase type 2: Mechanistic insights from enzyme kinetics, SPR, and molecular modeling, Toxicology and Applied Pharmacology, 514, 117939 (2026). PMID 42419492. doi:10.1016/j.taap.2026.117939