原料図鑑 · 78
原料図鑑:cis-3-ヘキセニルアセテート —— 刈った草の匂いで、それは植物の警報信号になる
· 13 分
CAS 3681-71-8。サプライヤー103社は、このシリーズで扱ったなかでも最多に近い。残香欄は「< 4時間 @ 100%」——不等号つきで、しかもこのシリーズで最短になる。954件の処方のうち79件、使用量の中央値は0.60%。自然界での役割のほうが香水での役割よりはるかに有名だ。2008年の研究はポプラの苗を、傷ついた葉が自然に放出する濃度にさらした。その葉が後にマイマイガの幼虫に食われたとき、ジャスモン酸濃度は高く、防御遺伝子はあらかじめ立ち上がっていた。刈った草の匂いは警報であり、木はそれを聞いている。
まず残香欄を見る。その書き方自体がこの記事の一部になるからだ。
< 4時間 @ 100%
あの不等号。
残香の記録に大なり記号がつく話は書いた。全データベースに206件あり、どれも測定値ではなく下限になる。これは逆向きだ。原液がムエットの上で、誰かが見た最初の時点である4時間より前に消えていた、という意味になる。
このシリーズで最短になる。 ジメチルスルフィドは4時間で、これは4に届かない。
先に結論
- CAS 3681-71-8、C₈H₁₄O₂、MW 142.20、サプライヤー103社。このシリーズでも最多に近い。
- 残香は100%で4時間未満。 強さは high、10%以下の溶液で嗅ぐことを推奨。
- 954件中79件(8.3%) に登場し、使用量の中央値は 0.60%。
- 香調はフレッシュ、グリーン、スイート、フルーティ、バナナ、アップル、グラッシー、洋ナシ、メロン。
- GHSの記載は1行だけ。H226 引火性液体および蒸気。感作もなく水生有害性もない。 このシリーズで最近扱った素材のなかではめずらしい。
- 本当の名声は植物科学の側にある。 2008年の研究はポプラの苗を、傷ついた葉が自然に放出する濃度にさらした。その葉が後にマイマイガの幼虫に食われたとき、ジャスモン酸とリノレン酸の濃度が高く、防御関連遺伝子があらかじめ立ち上がっていた。
- 論文の結論はこうだ。木本植物はこれを信号として検出し、実際に加害される前に防御を準備できる。
読了8分ほど。
あの不等号
欄の書き方は一度きちんと書いておく価値がある。
| 素材 | 残香 |
|---|---|
| カローン | > 600時間 @ 10% |
| イソオイゲノール | 100%で400時間 |
| ジヒドロ-β-イオノン | 100%で9時間 |
| ジメチルスルフィド | 100%で4時間 |
| cis-3-ヘキセニルアセテート | 100%で4時間未満 |
2つの記号は逆のことを意味し、どちらも測定が打ち切られたことを意味する。
> 600=600時間の時点でまだ嗅げた。だから真値は少なくとも600になる。< 4=最初の確認時点、おそらく4時間で、すでに消えていた。だから真値は4未満になる。
どちらも測った数字ではなく、測定範囲の端になる。
実務上の帰結は、これが純粋にトップの素材だということだ。 ムエットの上で映画1本分も持たない。
そして処方での使用量の中央値は0.60%。 処方群の素材項目の24.6%が1%未満で、これはその群にいる。
香調欄が2つの世界にまたがる
フレッシュ、グリーン、スイート、フルーティ、バナナ、アップル、グラッシー、洋ナシ、メロン
9語のうち5語が具体的な食べ物になる。
緑葉揮発物の一族らしい性質だ。 傷ついた植物の匂いであると同時に、熟していく果実の匂いでもある。同じ生化学から来るからだ。 脂肪酸の酸化的開裂になる。
産出欄がそれを裏づける。
リンゴ、ビルベリー、セロリ、カモミール花油(微量)、キンコウボクコンクリート @ 0.01%、コーンミント油 @ 0.04%、ディルの葉、グアバの果実、グアバ果実のヘッドスペース(レユニオン)@ 1.30%……
グアバのヘッドスペースで1.30%、この欄では高いほうの数字になる。
処方での仕事は、たいていフルーツを「摘みたて」の方向へ押すか、グリーン調に本当らしい葉の入口を与えることになる。骨格は支えられない。最初の数分を担当する。
それは植物の警報になる
この素材について本当に知る価値があるのはここで、香水とは関係がない。
緑葉揮発物は、植物の組織が損傷したときに直ちに放出される分子群で、これはその主要なものの1つになる。刈った草の匂いはそれだ。
そして植物は聞いている。
Frostらは2008年に New Phytologist で、きれいに設計された実験を行った。
問い: 草食者誘導性植物揮発物は、草食者の天敵を引き寄せるほかに、植物内部の信号として防御を誘導またはあらかじめ立ち上げることができる。しかしどの揮発物が信号分子として働くのかは、とくに木本植物では大部分が未知だった。
方法:
- 交雑ポプラ苗の葉を、生体のまま、傷ついたときに自然に放出される濃度のcis-3-ヘキセニルアセテートにさらす
- そのあとマイマイガの幼虫に食わせる
- 全期間にわたって揮発物を採取し、葉組織から植物ホルモン濃度と防御遺伝子の発現を測定する
結果:
対照と比べ、暴露された葉はマイマイガの摂食後にジャスモン酸とリノレン酸の濃度が高かった。 さらに、オキシリピン信号伝達と直接防御を媒介する遺伝子の転写があらかじめ立ち上がっていた。 qRT-PCRと、約5,400の遺伝子モデルを含むマイクロアレイの両方で確認された。加えて、テルペン揮発物の放出もあらかじめ立ち上がっていた。
そして結論は明快になる。
この広範なプライミング反応は、これを傷の信号として検出することに適応的な利益があることを示唆する。したがって、木本植物はこれを信号として検出し、実際に加害を経験する前に防御を準備できる。
木は、隣の木が齧られた匂いを嗅いで、自分の防御を先に立ち上げる。
そしてその信号分子が、瓶のなかのそれになる。
木だけの話でもない。 Desmedtらは2023年に Journal of Experimental Botany で、同じ分子についてイネでの分子レベルの解析を発表している。表題は「緑葉揮発物Z-3-ヘキセニルアセテートによるイネの広域誘導抵抗性の分子解析」。木本と草本、虫害と病害、同じ1分子になる。
なぜ4時間持たないのか
これは生物学的な役割と整合する。
警報信号に必要なのは速さであって、持続ではない。
- 損傷の瞬間に大量に放出される必要がある
- 隣の植物へ速く届く必要がある
- そして速く消える必要がある。 さもなければ信号は意味を失う。鳴りやまない警報は警報ではない。
沸点165〜167 °C、引火点57 °C、水溶解度0.9 g/L。 小さく軽いエステルで、去るようにできている。
(はっきりさせておくと、「できている」は言葉のあやになる。進化は設計しないし、ここで述べているのは観察された整合であって因果の証明ではない。 論文もそのような主張はしていない。)
物性
| 項目 | 値 |
|---|---|
| CAS | 3681-71-8 |
| 分子式 | C₈H₁₄O₂、MW 142.20 |
| 外観 | 無色の澄明な液体(推定) |
| 沸点 | 165〜167 °C @ 760 mmHg |
| 引火点 | 57 °C |
| logP | 1.90(推定) |
| 水溶解度 | 0.9 g/L @ 20 °C(実測) |
| 残香 | 100%で4時間未満 |
| 強さ | high、10%以下で嗅ぐことを推奨 |
| 保存期間 | 18か月以上 |
| サプライヤー | 103社 |
| 規制収載 | JECFA、FEMA GRAS、CoE、FLAVIS |
| GHS | H226 引火性液体および蒸気(記載はこれだけ) |
GHSは1行で、しかも毒性ではなく引火性になる。 このシリーズで最近扱った素材のなかではめずらしい。ヘキシルシンナマールはH317の感作、ジヒドロ-β-イオノンはH411の水生毒性、イソオイゲノールは5行ある。これは引火性だけだ。
引火点57 °Cは低いほうで、多くの香料素材より低い。輸送と保管では可燃物として扱うことになる。 それでもジメチルスルフィドの−36.7 °Cには遠い。
水溶解度0.9 g/L=900 mg/Lは香料としては高く、水を含む製品にも入る。
保存期間18か月。 エステルなので加水分解する。湿気が敵で、蓋はしっかり締めることになる。
この記事が示していないこと
嗅いでいない。 全体はデータベースの欄、処方群、2本の論文の突き合わせになる。
「< 4時間」はデータベースの記録で、あの不等号が正確に何を意味するかの出典はない。 「最初の確認時点ですでに検出されなかった」と読んだが、これは記法の妥当な読みであって、データベースが与えた定義ではない。
Frostの研究は交雑ポプラとマイマイガの幼虫を、制御条件下で「傷ついたときに自然に放出される濃度」で用いている。それはどんな香水も生まない濃度だし、要旨はその濃度を数値化していない。
「鳴りやまない警報は警報ではない」はこちらの言葉のあやで、論文の議論ではない。 あの論文はこの分子がなぜ揮発しやすいかを論じていない。短い残香と信号としての機能を並べたのは観察であって、因果の主張ではない。
Desmedtの論文は表題と著者しか読んでいない。 表題が述べる範囲(イネの広域誘導抵抗性)を引いたのであって、結果も数値も引用していない。
グアバのヘッドスペース1.30%はデータベースの産出欄の数字で一次出典はなく、天然物の組成は産地と方法で動く。規格ではなく桁として扱うことになる。
処方群の79件は cis-3-hexenyl acetate という綴りで拾った。 (Z)-3-hexen-1-yl acetate などで書かれた処方があれば、取り逃がしている。
GHS分類はデータベースの記載であって、規制上の完全な判定ではない。実際に使うときは手元のロットのSDSと現行のIFRA基準に従ってほしい。
参考文献
C. J. Frost, M. C. Mescher, C. Dervinis, J. M. Davis, J. E. Carlson, C. M. De Moraes, Priming defense genes and metabolites in hybrid poplar by the green leaf volatile cis-3-hexenyl acetate, New Phytologist, 180(3), 722-734 (2008). PMID 18721163. doi:10.1111/j.1469-8137.2008.02599.x
W. Desmedt, M. Ameye, O. Filipe, et al., Molecular analysis of broad-spectrum induced resistance in rice by the green leaf volatile Z-3-hexenyl acetate, Journal of Experimental Botany, 74(21), 6804-6819 (2023). PMID 37624920. doi:10.1093/jxb/erad338