原料図鑑 · 71
原料図鑑:ジメチルスルフィド —— みんなが「海の匂い」と呼ぶ分子。データベースの香調欄は玉ねぎとキャベツになっている
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CAS 75-18-3。サプライヤー81社、分子量62.13でこのシリーズ最小の分子になる。沸点37.3 °Cは体温より低く、引火点は−36.7 °C、残香は4時間、推奨は「0.10%以下の溶液で嗅ぐこと」。4つの欄がこのシリーズの極値になる。954件の公開処方には7回登場し、7回とも予備希釈の形で、原体換算の中央値は80 ppm。その7件に海洋調は1つもない。イチゴ、桑の実、ブルーベリーマフィン、ゼラニウム、クリームソープだ。それでも海の信号分子であることは確かで、アカウミガメは10 nmol/Lのこれに反応し、シナモン・ジャスミン・レモンには反応しない。
2つを並べてみる。
海洋調を作ろうとする人が最初に候補に挙げる1本がこれになる。
そしてデータベースの香調欄はこうだ。
サルファー、玉ねぎ、スイート、コーン、ベジタブル、キャベツ、トマト、グリーン、ラディッシュ、クリーミー、フィッシー、シーフード、ベリー、フルーティ
「マリン」も「オゾニック」も「塩」もない。
それでいて、これは確かに海の匂いになる。この記事はその2つがどう同時に成り立つかの話だ。
先に結論
- このシリーズで扱ったなかで最小の分子になる。C₂H₆S、分子量62.13。サプライヤー81社。
- 物性の4つの欄がこのシリーズの極値になる。 沸点37.3 °C(体温より低い)、引火点**−36.7 °C**、残香100%で4時間、そして「0.10%以下の溶液で嗅ぐことを推奨」。
- 954件の公開処方に7回登場し、7回とも予備希釈の形になる(0.1%または1%)。原体換算の中央値は80 ppm(0.0080%)、範囲は0.9 ppmから150 ppm。
- その7件に海洋調は1つもない。 ワイルドストロベリー、桑の実、ブルーベリーマフィン、ゼラニウム模造2件、クリームソープ香料、そしてHerbatin調になる。
- 一方、自然界では確かに海の信号分子になる。 2014年のPNAS論文はこれを海洋の頂点捕食者にとって確立された採餌の手がかりと記し、2012年の研究はアカウミガメが10 nmol/Lのこれに行動的に反応し、シナモン・ジャスミン・レモンには反応しないことを見つけた。
- 産出欄も同じくらい長い。アスパラガス、ビール、キャベツ、チェダー、コーン、ドリアン、ニンニク、玉ねぎ……
読了8分ほど。
7回の登場、すべて予備希釈
このシリーズで「原体としての登場がゼロ」の素材に出会ったのは初めてになる。
954件のうち、ジメチルスルフィドは7回出てくる。
| 処方 | 表記 | 処方に占める割合 | 原体換算 |
|---|---|---|---|
| 桑の実タイプ | 1%希釈 | 1.500% | 150 ppm |
| ゼラニウム模造 10 | 1%希釈 | 1.000% | 100 ppm |
| ゼラニウム模造 20 | 1%希釈 | 1.000% | 100 ppm |
| Herbatin調 | 0.1%希釈 | 8.000% | 80 ppm |
| ブルーベリーマフィン(Givaudan) | 1%希釈 | 0.200% | 20 ppm |
| ワイルドストロベリータイプ | 1%希釈 | 0.105% | 10.5 ppm |
| クリームソープ香料 | 1%希釈 | 0.009% | 0.9 ppm |
中央値80 ppm、10万分の8になる。
そして最小は0.9 ppm、100万分の1を下回る。
2つ目を引く点がある。
1つ目。誰も原体を秤に載せていない。 7件すべてが希釈を経ている。偶然ではない。推奨の嗅香濃度が0.10%で、処方に入れる量はそれよりさらに1〜2桁下になる。 0.9 ppmを天秤で量ることはできない。
2つ目。7件のどれも海洋調ではない。 フルーツ、ゼラニウム、石鹸だ。
海洋調に使えないという意味ではない。 あの処方群の74%は特許と公開された出どころから来ていて、年代バイアスが重いし、海洋調というジャンル自体が比較的新しい。示しているのは、記録された用法のなかでこの素材が主にフルーツと野菜の仕事をしていて、海の仕事はしていないということになる。
ではなぜ海の匂いなのか
海のなかでは、実際にそうだからだ。
海洋の植物プランクトンはジメチルスルホニオプロピオン酸(DMSP)を作り、その分解でジメチルスルフィドが放出される。植物プランクトンが食べられたりストレスを受けたりすると放出は増える。 だから海面上のジメチルスルフィド濃度が高い場所は、たいてい生産性が高く餌の多い場所になる。
そして海の動物はそれを使って餌を見つけている。
SavocaとNevittは2014年に PNAS で南極海の食物網を研究した。彼らはジメチルスルフィドを海洋の頂点捕食者にとって確立された採餌の手がかりと記し、ジメチルスルフィドを採餌の手がかりとして使うミズナギドリ目の海鳥が、植物プランクトンの捕食者を選択的に食べているという証拠を示している。海鳥が排泄によって海へ戻す鉄は、鉄制限下の植物プランクトンを養い返す。
匂い分子を介した三栄養段階の相利関係になる。
より直接的な証拠はウミガメから来る。
EndresとLohmannは2012年に Journal of Experimental Biology できれいな実験をした。幼いアカウミガメを水を張ったアリーナに入れ、水面上の空気に匂い物質を導入できるようにした。
結果は、10 nmol/Lのジメチルスルフィドを入れたカップの上を通った空気に触れたウミガメは、蒸留水の対照群より長く鼻を水面から出していたというものになる。
この実験のいちばん良いところは対照だ。
海に存在しない匂い(シナモン、ジャスミン、レモン)は水面滞在時間の増加を引き起こさなかった。 これはDMSへの反応が、あらゆる新奇な匂いへの一般的な反応を反映している可能性が低いことを意味する。
「匂いあり対なし」ではなく、「海の匂い対そうでない匂い」を走らせている。 その一歩が「新しいものに好奇心を示しただけ」という説明を排除する。
論文の結論は、ウミガメがジメチルスルフィドを検出できることを初めて示したもので、この能力が好適な採餌域の特定を可能にしているかもしれない、というものになる。
つまり「海の匂い」は生態学的には正しい。 ただし正しさの中身は「この分子は餌のある場所を示す」であって、「この分子が海のように匂う」ではない。
物性:4つの極値
| 項目 | 値 |
|---|---|
| CAS | 75-18-3 |
| 分子式 | C₂H₆S、MW 62.13 |
| 外観 | 無色〜淡黄色の澄明な液体(推定) |
| 沸点 | 37.3 °C |
| 融点 | −98 °C |
| 引火点 | −36.7 °C |
| logP | 0.90(推定) |
| 水溶解度 | 22,000 mg/L @ 25 °C |
| 残香 | 100%で4時間 |
| 強さ | high、0.10%以下の溶液で嗅ぐことを推奨 |
| 保存期間 | 12か月以上 |
| サプライヤー | 81社 |
| 規制収載 | JECFA、FEMA GRAS、CoE、FLAVIS |
沸点37.3 °Cは体温より低い。 手の上で沸く。冷やしてから開け、手早く作業することになる。
引火点−36.7 °Cはこのシリーズで出会ったなかで最も低く、しかも差が大きい。 シネオールは48 °C、ヘキシルシンナマールは113 °C、veramossは182.8 °C。これは氷点下30度台で着火する。 輸送も保管も危険物として扱う水準になる。
残香4時間。 データベースでサプライヤー20社以上かつ残香の記録がある800素材を数えると、短いほうから43番目にあたる。カローンの600時間超と比べれば2桁半の差になる。純粋にトップノートの素材だ。
推奨希釈0.10%はこのシリーズで最も極端になる。 カローンとveramossは10%、Ambroxanは1%、これは0.1%だ。
水溶解度22,000 mg/Lはフェネチルアルコールと同じ。水相に入る。
食べ物のなかにいくらでもある
産出欄は長い。
アスパラガス、ビール、小麦パン、芽キャベツ、バター、キャベツ、セロリ、チェダーチーズ、スイスチーズ、加熱した鶏肉、チャイブ、カカオ、コーン、生クリーム、カシス、ドリアン、卵、魚、ニンニク、ゼラニウム、コールラビ、加熱した羊肉、玉ねぎ……
FEMA GRAS番号を持っていて、正式な食品香料原料になる。茹でたトウモロコシ、茹でたキャベツ、熟成チーズの匂いにはこれが入っている。
処方群の7件がフルーツと野菜の仕事なのはそのためになる。 フレーバーの世界では主流の素材で、香水の世界では周縁の素材だ。
ゼラニウムの2件は面白い。 産出欄には確かにgeraniumが入っていて、これはゼラニウムの香気の天然成分の1つになる。ゼラニウム模造に少し入れるのは、実際にそこにある分子を戻していることになる。
実務での扱い方
1. 予備希釈品を買う。 フォーラムで別の素材について「自分なら予備希釈品を買う」と書いた人がいたが、これはもっとそうすべきになる。 原体は37 °Cで沸き、−37 °Cで引火し、必要な量はppm単位だ。
2. 原体を持っているなら、開ける前に冷やす。 沸点が体温より低いので、室温で開ければ失われるし、部屋中が匂う。
3. 2段階で希釈する。 原体から一気に0.1%を作るには量れない量を量ることになる。まず1%を作り、そこから0.1%を取る。 秤量と希釈については書いた。
4. トップノートの素材であって、残ることを期待しない。 4時間は原体の数字で、使うのはppm単位になる。最初の数分を過ぎればもういない。
5. 同じ日に他のものを試さない。 「0.1%以下推奨」の側の素材で、その日触るムエットを全部汚染する。
この記事が示していないこと
嗅いでいない。 全体はデータベースの欄、処方群、2本の論文の突き合わせになる。
「7回すべてが予備希釈」はこの954件についての事実であって、業界慣行の証明ではない。この計数は処方群が希釈率を名称に書いていることに依存するので、原体を使いながらそう書かなかった処方があれば見落とす。
80 ppmという中央値は7つの値の中央値になる。 7標本で分布は語れない。7つ全部を並べたのはそのためだ。
「どれも海洋調ではない」は7件の処方名を読んで得たもの(ワイルドストロベリー、桑の実、ブルーベリーマフィン、ゼラニウム模造×2、クリームソープ、Herbatin)になる。処方の中身まで読んで狙いを判断してはいない。
Savocaの論文は南極海の食物網の生態学研究であって、匂いの研究ではない。引いたのはジメチルスルフィドを採餌の手がかりとする記述と、三栄養段階の知見になる。
Endresの研究は実験室環境での幼いアカウミガメの行動試験になる。 鼻を水面から出している時間は代理指標であって、餌に向かって泳ぐことを直接測定したものではない。
10 nmol/Lは水面上のカップの中の濃度であって、海中の濃度ではない。 野外の曝露に換算することはできない。
「海面上の高濃度は生産性の高さを意味する」はこちらによる背景の記述になる。 2本の論文はどちらもこの前提の上に立っているが、引いた2本のどちらも、その関連を測定した研究ではない。
沸点の欄には2つの値がある(37.30 °Cと−37.50〜−37.30 °C)。後者は不合理に見える。この分子の既知の沸点に合う37.3 °Cを採用したが、欄そのものに問題がある。
この記録のGHS欄は空になっている。 そして空白は安全の結論ではない。これは沸点の低い高度に引火性のスルフィドで、実際に使うときは手元のロットのSDSに従ってほしい。
参考文献
M. S. Savoca, G. A. Nevitt, Evidence that dimethyl sulfide facilitates a tritrophic mutualism between marine primary producers and top predators, Proceedings of the National Academy of Sciences, 111(11), 4157-4161 (2014). PMID 24591607. doi:10.1073/pnas.1317120111
C. S. Endres, K. J. Lohmann, Perception of dimethyl sulfide (DMS) by loggerhead sea turtles: a possible mechanism for locating high-productivity oceanic regions for foraging, Journal of Experimental Biology, 215(20), 3535-3538 (2012). PMID 23014568. doi:10.1242/jeb.073221