原料図鑑 · 76
原料図鑑:オリスバター —— 買っているのは素材ではなく、あの百分率になる
· 14 分
CAS 8002-73-1。サプライヤー40社、融点40〜46 °C。体温を超えて初めて液体になり、このシリーズで扱った天然物のなかでも最も融点が高い部類に入る。そしてデータベースは香りの強さをlowとする。2つの事実には1つの原因がある。2024年の研究がアイリス根茎でヘッドスペースと水蒸気蒸留を比べたところ、蒸留物の主成分はドコサン45.79%と脂肪酸で、イロンは43.74〜45.76%から24.70%へ落ちた。欲しいものが中に入った脂肪酸のかたまりになる。だから供給元は品名に含量を書く。15%、8%——同じ「オリスバター」でも倍違いうる。
このシリーズで扱った素材の多くは、名前で買える。
これは買えない。
データベースの欄には、メーカーの実際の品名が載っている。
ORRIS BUTTER ABSOLUTE 15% Orris Concrete Nat 15% Irone Orris butter reinforced 8% Blend
3つの名前、3つの数字。そしてその数字こそ買っているものになる。
先に結論
- CAS 8002-73-1、主な由来は2つ。Iris pallida(40社)と Iris germanica(39社)。
- 融点40〜46 °C。 体温を超えて初めて液体になり、このシリーズで扱った天然物のなかでも最も融点が高い部類に入る。外観はペースト。
- 香りの強さは
low。 純粋なα-イロンはmediumになる。 - 厚ぼったさと弱さは同じ原因から来る。 2024年の研究がアイリス根茎でヘッドスペースと水蒸気蒸留を比べたところ、蒸留物の主成分はドコサン45.79%と脂肪酸で、cis-α-イロンはヘッドスペースの**43.74〜45.76%から24.70%**へ落ちた。
- ミリスチン酸の融点は54 °C、パルミチン酸は63 °C。あの40〜46 °Cは脂肪酸の融点になる。
- だから供給元は含量を売る。 15%と8%は倍近く違い、どちらの瓶にもオリスバターと書いてある。
- イロンはイオノンと構造が近く、イオノンの感受性はほぼ単一の遺伝子で決まる(Jaegerら2013)。イロンで同じことが成り立つかは、研究が見つからなかった。
読了8分ほど。
2つの種、2つの記録
データベースは2つに分けている。
| Iris pallida | Iris germanica | |
|---|---|---|
| 記録 | #28848 | #28843 |
| サプライヤー | 40社 | 39社 |
| 融点 | 40〜46 °C | — |
| 外観 | 淡黄色〜黄色のペースト | 黄色のペースト〜固体 |
| 強さ | low | — |
| 香調 | ウッディ、ファッティ、ヴァイオレット、フルーティ、スイート、フローラル、ウォーム | オリス |
| 産出 | Iris pallida 根茎 | Iris germanica 根茎 |
2種のサプライヤー数はほぼ同じになる。 そしてpallidaの記録の香調欄にある1語に注目したい。ファッティ(脂っぽい)。
この語がこの素材の鍵になる。
なぜ固体なのか
主に香料ではないからだ。
Friščićらは2024年に Molecules で、クロアチア固有のアイリス3種の乾燥根茎を分析し、揮発成分を2法で採った。ヘッドスペース固相マイクロ抽出と水蒸気蒸留になる。
最も古く、イロンに富む Iris pseudopallida の試料では:
| 方法 | cis-α-イロン | 主成分 |
|---|---|---|
| ヘッドスペース | 43.74〜45.76% | イロン |
| 水蒸気蒸留 | 24.70% | ドコサン 45.79% |
同じ根茎で、採取法を変えるとイロンが44%から25%へ落ちる。
そして水蒸気蒸留側から出てきたものは、はっきり書かれている。
HDは主に脂肪酸を与え、全供試分類群に共通するミリスチン酸(4.20〜97.01%)、そして I. adriatica の精油の主要揮発成分としての**リノール酸(40.69%)とパルミチン酸(35.48%)**を含んだ。
ミリスチン酸の融点は54 °C、パルミチン酸は63 °Cになる。
だからあの40〜46 °Cという融点は、イロンのものではなく脂のものになる。
これが2つの観察を1つの説明にまとめる。
- なぜ厚ぼったいのか。 主に脂肪酸と長鎖アルカンだからになる。
- なぜ弱いのか。 欲しい部分がそのなかの少数派だからになる。
フォーラムで「TEC中10%のオリスバターはこういう見た目でいいのか」と聞いた人がいたが、答えは「はい」で、しかも弱く感じるのと同じ理由による。
あの百分率
だから供給元は品名に数字を入れる。
データベースのサプライヤー欄から:
| メーカー品名 | 表示含量 |
|---|---|
| ORRIS BUTTER ABSOLUTE 15% | 15% |
| Orris Concrete Nat 15% Irone | 15% |
| Orris butter reinforced 8% Blend | 8% |
15%と8%は倍近く違い、どちらの瓶にもオリスバターと書いてある。
これは処方に直接効く。 誰かの処方がオリスバター0.5%を指定していて、その人が15%等級、こちらが8%等級を持っているなら、入れたイロンは相手の半分になる。
買う前に聞くべき問いは1つだけになる。この瓶は何%と表示しているか。
(ジャスミンの回の商品名の問題と同じ種類で、向きが逆になる。あちらは名前が違えば中身も違う。こちらは名前が同じで含量が違う。どちらも規格を見ないと分からない。)
「reinforced」という語も見ておきたい。 ふつうは、天然のコンクリートにイロンを足して表示の数字に届かせたという意味になる。偽和ではなく規格化だ。 ただし「天然オリスバター」という語の下に、足されたものが含まれうることは意味する。
なぜ高いのか
伝統的には、根茎を3〜5年寝かせてから抽出する。
理由は化学的で、新鮮な根茎にはイロンがほとんどない。イロンはイリダールと呼ばれるトリテルペノイド前駆体が、長い時間をかけて酸化的に分解して生じる。 その過程は遅く、時間を要する。
だから代金の大きな部分は在庫の年数になる。
フォーラムのスレッドで、現代的な経路に触れた人がいた。
「このオリスバターはBiolandes製だと思う。彼らは少し違う製法を使っていて、根を何年も寝かせなくてもイロンを抽出できる。それでより手頃な製品になる」
これは検証できない。 製法の細部で、データベースにも、見つけた論文にもない。ただし構造——熟成が主なコストで、それを迂回したい人がいる——は筋が通る。
どれだけ持つのか
フォーラムのスレッドのもう半分がこれになる。ベースノートとされているのに30分で消えた。
| 素材 | 強さ | 残香 |
|---|---|---|
| オリスバター | low | 記録なし |
| α-イロン | medium、10%以下 | 100%で104時間 |
| β-イオノン | medium、10%以下 | 100%で112時間 |
純粋なイロンは104時間持ち、オリスバターには残香の記録がなく強さはlowになる。
矛盾しない。 オリスバター中のイロンは8〜15%で、残りの85%は脂肪酸になる。匂いもなく、イロンを長持ちさせもしない。
「オリスバターなら30分くらいが妥当だ」と書いた人と、ベースよりミドルに分類されることが多いと書いた人がいた。 どちらもデータと整合する。
そしてもう1つ、記録しておく価値のある観察がある。
「オリスは香水のなかで育つ傾向がある。完全な強さに達するには何か月もかかる」
これも検証できない(マセレーションについては書いた)。オリスバターが主に脂であることとは両立する。 脂の相がアルコール中で均一に分散するには時間がいる。筋の通る推測であって、結果ではない。
遺伝子の話
イロンはイオノンと構造が近く、イオノン側にはとてもきれいな研究がある。
Jaegerらは2013年に Current Biology で OR5A1のrs6591536、N183D置換を同定し、β-イオノン感受性の表現型変異の96%超を説明する、単一遺伝子のメンデル形質に似たものだとした。
そしてあの論文は、感受性の高い人がそれを「芳しい」「フローラル」と表現し、低い人は別の仕方で表現することも見つけている。
それがオリスバターにとって何を意味するかは分からない。理由を書いておく。
あの研究が測ったのはβ-イオノンであってイロンではない。 両者はメチル基の位置が違うだけで、嗅覚受容体はまさにその種の差にきわめて敏感になりうる(フェネチルアルコールの回で近い例を見た)。イロンについての対応する研究は見つからなかった。
だからオリスバターがほとんど無臭に思えるなら、可能性は2つになる。 濃度の算数が違っている(あの回で計算した)か、この分子群に対する感受性が低いか。前者は確かめられ、後者はいまのところ確かめられない。
物性
| 項目 | 値 |
|---|---|
| CAS | 8002-73-1 |
| 由来 | Iris pallida / Iris germanica 根茎 |
| 融点 | 40〜46 °C |
| 外観 | 淡黄色〜黄色のペースト |
| 強さ | low |
| 水溶解度 | 0.4668 mg/L @ 25 °C(推定) |
| 溶解性 | エタノール |
| サプライヤー | 40社(pallida)/39社(germanica) |
| 香調 | ウッディ、ファッティ、ヴァイオレット、フルーティ、スイート、フローラル、ウォーム |
水溶解度0.4668 mg/L はこのシリーズで見たなかでも最も低い部類になる。ジメチルスルフィドの22,000より4万倍以上低い。水相にはまったく入らない。
実務では:
- 使う前に温める。 体温以上の湯せんか、フォーラムの言うようにポケットで。
- 温かいうちに秤る。 冷たいペーストは正確に秤れない。
- 溶ける溶剤で希釈する。 TEC、DPG、エタノールは使える。水はゼロになる。
- 自分の瓶の表示含量を書き留める。 処方のなかで再現できる唯一の数字になる。
この記事が示していないこと
嗅いでいない。 全体はデータベースの欄と2本の論文の突き合わせになる。
Friščićが測ったのはクロアチア固有の3種(I. pseudopallida、I. illyrica、I. adriatica)で、商用オリスバターの原料ではない。ヘッドスペースも水蒸気蒸留もオリスバターの製法ではない。あの百分率はあの試料の話になる。 使っているのは「アイリス根茎の抽出物は主に脂肪酸で、イロンは少数派」という桁であって、オリスバターの組成規格ではない。
ミリスチン酸の4.20〜97.01%という幅は極端に広い。 3種と3法の差を反映しているのであって、単一試料内の変動ではない。
「3〜5年寝かせる」「イリダール前駆体の酸化」はこちらによる背景の記述で、引用した2本の論文から来たものではない。この節には出典を付けていない。
Biolandesの製法の段落はフォーラムのコメントで、検証していない。
「オリスは香水のなかで育つ」もフォーラムのコメントになる。 示した機構(脂の相が分散するのに時間がいる)は推測であって研究結果ではない。
Jaegerが測ったのはβ-イオノンになる。 イロンへの一般化に証拠はない。入れたのは、この分子群で唯一きれいな証拠だからであって、この素材に当てはまるからではない。
品名の15%、8%はデータベースのサプライヤー欄の文字列で、その規格の定義をメーカーに確認してはいない。 「15% irone」がイロンの全異性体を数えるのか、そのうち1つなのかは分からない。
参考文献
M. Friščić, Ž. Maleš, I. Maleš, et al., Gas Chromatography-Mass Spectrometry Analysis of Volatile Organic Compounds from Three Endemic Iris Taxa: Headspace Solid-Phase Microextraction vs. Hydrodistillation, Molecules, 29(17), 4107 (2024). PMID 39274954. doi:10.3390/molecules29174107
S. R. Jaeger, J. F. McRae, C. M. Bava, et al., A Mendelian trait for olfactory sensitivity affects odor experience and food selection, Current Biology, 23(16), 1601-1605 (2013). PMID 23910657. doi:10.1016/j.cub.2013.07.030